日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

133 農村と農民・労働問題と社会主義運動 

いよいよ資本主義の発達ということで労働社会主義運動というテーマで話を進めて行きたいと思います。前回は,資本主義の発達いわゆる産業革命の部分を見たわけですが,今回は労働を担った労働者,そして労働運動,それと並行し起こる資本主義に対する格差の是正を図ろうとする社会主義運動について見ていきたいと思います。ここはみんな苦手としているところでもあり,だからこそテストで差のつくところでもありますので,しっかりみていきましょう。

 

労働者の実態

前に松方デフレの話しました。実はこのデフレが一つの原因となって農民たちの階層分化が起こったと言ってもいいでしょう。このように厳しい不況の中で地租が払えない小作農たちは土地を手放し没落していく一方で,土地を集積した寄生地主たち金持ちになっていくと,貧乏な小作がたくさん増える。このようなしくみを寄生地主制と言うんでしたね。やがて,この寄生地主がお金の面を,そして貧しい労働者が出稼ぎ労働でいわゆる資本主義市場にお金と労働力を提供するようになりました。これが一つの基盤となって産業革命が起こり,そして成功していくのでした。前回は,産業革命に成功した機械生産,そしてに欧米に追いつけ追い越せの紡績業だとか,お金の面を担った製紙業などの話を中心にしたわけですよね。ところで今回はそんな光の裏側で,劣悪な労働条件で働いた労働者の人たちの影の部分のお話なのです。これは現在でも,令和の世にあってもですよ,劣悪な労働条件と賃金がなかなか上がらない,そして過労死などいろんな問題が噴出してますよね?まさに今,これから社会を担っていくみなさんが今日の勉強を通じて,正しい働き方とは何なのか?をこの歴史の勉強を通じて感じてもらいたい単元でもあります。

 

まず,中農層以下の没落があり,都市に出稼ぎに出たり,農村の場合は製紙工場で働いたりしていました。そして,劣悪な労働条件で,低賃金であったり,大阪紡績会社のように昼夜二交代制であったり,さらに15〜18時間に及ぶ長時間労働などが挙げられます。こんな労働者の実態をルポルタージュした報告書とか小説がたくさんあるわけですが,中でも一番有名なのが横山源之助が著した「日本之下層社会」(1899年)なんです。当時のいろんな下層民たちの実態,そして日本社会のあり方を非常によく示してるのですが,「日本之下層社会」の第1編では東京貧民の状態,第2編でもいろんなことが書かれてあります。横山が事前に聞いていた以上にひどい状態だ,朝6時に起きて,寝るのは24時,割麦六分に米四分といって食事も米の中に雑穀が入っていたり,味噌汁は10倍に薄められていたり,豚小屋みたいなところで寝かされて,一番ひどいのは生糸を作る人達だって書かれてあるんです。覚えてますか?我が国の産業革命を担ったのが製糸業でしたね。繭から生糸をつくりアメリカに売って外貨獲得産業やーって言ってた一番売れている産業だったのですが,そんな国を支えている職工さんたちの境遇が劣悪だって書かれてあるんです。ここに日本社会の矛盾があるってことを横山源之助は主張したのですね。そして,労働の実態は「日本之下層社会」のみならず,政府も実態を把握するために農商務省が発行した「職工事業」(1903年)がありますが,工場労働者の劣悪な労働環境であることを参考にして,政府は1911年に工場法を制定しましたね。その他にも昭和初期には「女工哀史」(1925年)といって奥さんが女工さんだった細井和喜蔵の著書であったり,山本茂実が戦後に書いた小説で当時の生糸製糸場の女工さんの悲しい話が「あゝ野麦峠」(1968年)で書かれています。

覚え方

「日本下層社会」 横山源助(「之」つながり)

「職事情」 農商務省(工農商→(士)農工商つながり) 

女工哀史井和喜蔵(割麦六分に米四分ではれませんよね…。)

「あゝ野麦峠」実(野麦がってる!)

はい,これで覚えられます。何度も口に出して音読しましょう(笑)で,長崎県三菱が経営している高島炭鉱ですが,この経営があまりにも劣悪であったということが雑誌「日本人」にすっぱ抜かれました。大きな社会問題になったのですが,どういうことかというと,石炭を掘る炭鉱では飯場制度(納屋制度)といっていわゆる合宿所があるのですが,そこでの虐待が問題となったのです。食べさせてもらえない,汚い,脱走した人が捕まえられて虐待をうけるなど,そしてコレラ患者もたくさんでたようですが,浜辺の鉄板の上で焼かれて殺されるなど,ハッキリ言って囚人を働かせる以上に人間扱いしない長崎県高島炭鉱事件(1888年,ぜひ抑えておいてください。

 

労働運動の進展

劣悪な環境で働かされた労働者も黙っていたわけではありません。いわゆるストライキ労働組合運動をすすめていきました。一人でやっても埒があかないので,みんなで協力しようということで,まずストライキなのですが,産業革命初期の頃,1886年には雨宮製糸の女工ストといって,山梨県甲府市の製糸場においておこったストライキです。そして,大きいストといえば天満紡績ストですね。これは奇しくも1894年と偶然なんですが日清戦争と同年ですね。これは組織的に起こったものではなく,暴発的におこったのですぐに鎮圧されたのですが,でもこれが一つのストライキの走りとなりました。やがて労働者の地位向上を目指そうとする動きがさかんになり,1897年に高野房太郎によって職工義友会が結成されました。

 

さて,そんな高野房太郎は,当時労働運動の先駆的な国であるアメリカで労働運動を学びました。職工義友会(1897年)をつくるのですが,すぐに名前がかわり労働組合期成会(1897年)となります。そして,高野房太郎に加えてキリスト信者の片山潜も中心になって作りました。これは労働組合ではなく,労働組合の活動の仕方を指導する組織ですね。さらに,片山潜が編集長となって『労働世界』という機関紙を発行して,組合の作り方などを啓蒙していきました。この労働組合期成会の指導のもと,はじめて生まれた労働組合鉄工組合です。日本鉄道矯正会といって日本鉄道会社の労働者たちによって設立されました。

明治の労働運動

職工義友会(1897)ー高野房太郎

  ⬇

労働組合期成会1897)ー高野房太郎片山潜

 組合結成や争議を指導する組織  ※『労働世界』片山潜

 鉄工組合(1897)ー東京砲兵工廠や造船所などの鉄工が中心

 日本鉄道矯正会(1898,日本鉄道会社の労働者) 

 

1897年

とにかく明治の労働運動はやたらと1897年が多いのですが,1897年って何があったかピンときますか?そう!前回も学びましたが実はこの年に,綿糸の輸出高が輸入高を上回ったってやりましたよね?紡績会社がたくさん増えてどんどんアメリカに輸出していったって話でしたね。さらに,金本位制が導入されたのも1897年でした。金本位制は欧米の金融システムでしたが,欧米と同じ土俵にのったのがこの年でした。あえていうならば,資本主義の渦に巻き込んでいったのが1897年だったのです。

その1897年に資本主義に負けた労働者たちの運動が労働組合期成会が設立よってスタートするのでした。つまり資本主義の発達と労働運動は表裏一体だということが言えますよね。まさに日清戦争(1894年)そして,日露戦争(1904-05年)の間に挟まれた時代であったということですね。

 

政府の対応

このように労働者による一連の労働運動に対して,政府側も対応をせまられます。2つの対応があって,一つは治安維持法(1900)で弾圧をし,もう一方では工場法(1911)で妥協をするといった対応です。治安維持法は,あの第二次山県有朋内閣のもとで作られましたね。労働者の団結権・罷業権を制限し,のちに出てくる社会主義運動にも制限を加えました。とくに労働組合期成会や鉄鋼組合を弾圧されるなど,明治の労働運動は1897年にはじまり,治安警察法の制定(1911)によってだんだん尻すぼみになっていきます。そういった意味では政府側の勝利だともいえるでしょう。

 

日本の産業というのは製糸業を中心に,外貨獲得し,軍事工場で軍艦が作られました。しかし,労働者らがストライキを起こすと,たとえば生糸なども輸出できなくなる,外貨を獲得できなくなりますよね。さらに軍事工場がストップしたら軍備拡張できなくなります。これから軍備拡張してロシアを打倒すべしといった風潮の中で,このような弾圧系の法令もまかり通ったのでした。

 

一方で,1911年,第2次桂太郎内閣のときには工場法が制定されます。第二次桂太郎内閣のときにも少し触れましたが,この工場法は少しポイントがありまして,実は政府側も劣悪な労働条件になると生産力が当然ながら落ちますし,割麦六分に米四分しか食せない労働者は徐々に体力が弱体化し,兵隊にも参加できないといったことが懸念事項でした。そんな懸念事項を報告したのが農商務省の『職工事情』でした。しかし,日本は経済優先になってしまっていたので,工場法が制定されたのはいいのですが,製糸業や紡績業界にも配慮をし,1916年に施行されるまでになんと5年もかかってしまったのでした。ちなみに施行されたときの内閣は第2次大隈重信内閣でした。ということは,大正時代にすでに入ってしまっているということなんですね。さて,工場法の内容はというと,15人未満の工場には適用されませんでした。さらに12歳未満の労働を禁止しました。

 

 

社会主義運動

さて,資本主義が本格化してくると資本家や地主層と貧農労働者層の貧富の差が生まれますよね。いわゆる格差社会を生んでしまいます。しかし,国会で民意を語れるのは,直接国税15円以上をおさめる25歳以上の人たち,つまり資本家や地主層しかできなかったわけですよ。そこで,貧農労働者層は,今回やっているように組合を結成したりストライキを起こしたりして労働運動を通じて訴えていくのでした。そして,労働運動と表裏一体で資本主義に対して物申すとして登場したのが社会主義(平等主義)でした。つまり,社会主義は資本主義における諸問題を解決するには,富を持つものから財産をいったん政府に集めておいて,みんな平等に分配するっていう方法をとろうと訴えたのでした。しかし,資本主義側からしたら,これから日本は産業革命で経済の近代化を図っていこうとしているので「おい!社会主義の連中よ!空気読めよ,空気を」ってことで,弾圧の対象としていくわけですね。

 

そんな中,社会主義運動が発展します。1898年にキリスト教信者の安部磯雄片山潜らが社会主義研究会を設立します。キリスト教は神の前ではみな平等の考え方ですから,社会主義と親和性が高いんですね。安部磯雄早稲田大学の先生で,学生野球の父とも言われています。さて,1898年の前年1897年っていうのは,綿糸輸出高が輸入高を上回ったり,八幡製鉄所が着工したりと資本主義が盛り上がった年でしたし,労働組合期成会が発足した年でもありましたので,その翌年に社会主義運動も盛り上がりをみせた1898年とみてとることができますね。やがて,社会主義協会へと発展し,やがて社会民主党という日本初の社会主義政党片山潜安部磯雄幸徳秋水らが設立します。しかし,設立してすぐに治安警察法によって禁止となってしまいました。

 

社会民主党(1901)ー日本初の社会主義政党  「平民新聞

            安部磯雄片山潜・木下尚江・幸徳秋水など

幸徳秋水以外はキリスト教徒。尚,木下尚江日露戦争に反対する「火の柱」という本を書いている。

 ということで,社会民主党即日禁止となってしまいましたので,幸徳秋水らは平民社1903年に立ち上げて,堺利彦を交えて「平民新聞」を発行し,日露戦争の非戦論・反戦論を主張しました。

 

そんな日露戦争が終わってしばらくすると,日本社会党1906年に日本最初の合法的な社会主義政党として第1次西園寺公望内閣のときに承認されます。承認された理由は,「天皇制資本主義には盾突きません。そんな中で社会主義を広めていきたいとも思っています」て感じで緩やかな社会主義を主張したことや,なんと言っても西園寺公望は学生時代にフランスにも留学していましたし,あの民権運動をやっていた中江兆民とも友達でしたのでどちらかというとリベラルな思想を持った政治家といえるでしょう。メンバーは,片山潜幸徳秋水に加えて平民社から本格的に活動をはじめた堺利彦が参加しています。しかし,片山潜らの議会政策派VS幸徳秋水らの直接行動派の対立構造のあと,幸徳秋水らの直接行動派が台頭してきたために,翌年再び禁止となってしまいます。

 

社会主義研究会(1898)安部磯雄片山潜

社会主義協会(1900)安部磯雄片山潜

社会民主党(1901)安部磯雄片山潜幸徳秋水・木下尚江)

日本社会党(1906)片山潜幸徳秋水堺利彦

 

ということで,明治期の社会主義運動も労働運動とともに,あの山県有朋の作った治安警察法の適用を受けて運動は抑制されていくということになります。

 

社会主義の弾圧

さて,このように社会主義者が増えれば,政治をやる側からすると資本主義で動いている体制が崩れていくので,ここは労働運動よりも厳しく弾圧をせざるを得なかったという背景があります。たとえば,阪神甲子園球場のライトスタンドで多くのタイガースファンが黄色いメガホンをもって応援している中に,一人だけ赤いユニフォームをきて赤い旗を振ってたらどうなりますか?感じ悪いですよね?感じ悪いどころか「道頓堀川へ沈めたろか!?」って言われかねないですよね。はい,これが弾圧ってやつです。まぁカープファンも熱狂的なファン多いですけどね。

 

さて,第二次桂太郎内閣のときには,1910年に大逆事件が起こります。この事件は,明治天皇暗殺を企てたとして,幸徳秋水・管野スガ社会主義者の幹部ら26名が逮捕となり,その内12名が大逆罪として死刑になったのです。そして,「社会主義やってたらどうなるかわかっとるやろうな?」って感じで社会主義者だけを捕まえる特別高等警察特高が翌年に設置されます。こんな閉鎖的な世の中を風刺した当時の知識人には石川啄木がおりまして,彼は「時代閉塞の現状」(論評)で「体制に反することを言っただけで処刑するなんて言論思想の自由もあった世の中ではないな」と国家権力を批判しています。

 

みなさんはどう考えますか?人権を守ろうとする社会主義の運動が正しいのか?お金を守ろうとする利権を守ろうとする資本主義国家が正しいのでしょうか?いずれにせよ,せっかく天皇制資本主義守りながらも社会主義を推進する潮流が生まれたのに,結局はぐっと外へはじき出してしまったのが近代国家の課題でもありました。

 

まとめ

社会民主党(1901)

 ↓ 即日禁止

日本社会党(1906)※番目が社会党(「」つながり)【第1次西園寺内閣】

 ↓ 翌年禁止

大逆事件(1910)【第2次桂内閣】

 ↓幸徳秋水ら死刑

冬の時代