138 政党内閣の成立(寺内→原→高橋→加藤)
それでは,大正時代の政治の流れに戻ります。これまで3回分は第一次対戦関連のお話をしました。ここで,日本の歴史に戻ってきて今回は,政党内閣の成立というお話をしたいと思います。
大正時代始まってからの内閣の流れとしては,第二次西園寺公望→第三次桂太郎内閣→第三次西園寺公望内閣→第四次桂太郎内閣→山本権兵衛内閣→第二次大隈重信内閣でした。そして,第一次大戦を迎えることになります。今回は,第一次大戦の戦中・戦後の内閣のお話になります。で,大隈重信内閣の次の内閣が,寺内正毅内閣です。
寺内正毅内閣(ビリケン宰相)
この寺内正毅内閣なんですが,寺内正毅自身が長州出身のザ・藩閥軍閥政府ですね。もうガチガチの藩閥軍閥でしかも官僚組織をがっちり押さえているし,政党のことは一切耳を傾けない,まあ政党や国民にとっては人気のない総理大臣でした。ニックネームは「ビリケン宰相」で,ビリケンとは、頭のてっぺんが光ったツルツル頭の米国生まれのキャラクターを指すのですが、寺内はその風貌によく似ていたこと,政党には耳を貸さない非立憲内閣であったことから「ビリケン(非立憲)宰相」と呼ばれていたのです。
そんな寺内正毅内閣なんですが,第一次大戦中にロシアではロシア革命がおこり,ソ連という国が成立しました。ソ連といえば社会主義の国で,この新しくできた社会主義の国を潰すために色んな国が出兵をするんです。日本もシベリア出兵を決めるわけですが,そうするとシベリアに行く兵隊さんの食べるお米が必要だろう,国がお米をたくさん調達するだろう,ということで大金持ちが米の買占めに走り,米の値段が急上昇してしまいます。そういう大金持ちが米の相場を利用して儲けようとしたらコメの値段が急上昇してしまし,「米が高い!」っていうことになると,富山県のおばちゃんたちが反動して米騒動(1918年)が起きます(越中女房一揆)。それがやがて全国に波及し70万人規模の暴動となってしまいます。
これに対して寺内はなんと,軍隊を送り込んで鎮圧をするということになります。国民を守る軍隊が国民を攻撃するという非情な寺内のやり方に対して,国民はより刺激をされ「寺内ひどい!」「寺内やめろ!」って言う暴動がどんどんどんどん広がるわけですね。寺内さん自身もまあ長州出身,陸軍出身で国民には非常に人気がない人でした。さらに,結構冷たい性格で,物事を官僚的にしか見ない長州陸軍閥だっていうことで内閣総辞職します。
たしかこの前登場した第三次桂太郎内閣のときも民衆のデモ行動によって内閣が倒れましたね 。そして,この寺内正毅内閣も,第三次桂太郎内閣のときの大正政変につづき,民衆が政権を倒したわけです。そうすると,国民も「次,我々にとって気に入らない総理大臣が政治をやったら,またデモや抗議活動を全国的に展開すれば内閣は倒れるじゃないか?」っていう考えになりますよね?要するに気に入らない内閣だったら,デモや行動によって倒せばいいんだっていう国民の声に対し,この後本格的な政党内閣が成立するんですけれども,じゃあ逆に民衆が選挙によって選んだ多数派の政党から大臣を選べば「俺たちを選んだのはあんたたちだろう?」って切り替えせるわけですよね。国民が選挙で選んだ多数の政党から大臣を選ぶわけですので,国民がこれを倒すことは基本的には出来ないわけですよ。国民が文句を言ったら先回りして「オレを選んだのはあんたたちじゃないか?」って言うようになる。これが,政党内閣の利点ですよね 。
これを支えたのが吉野作造という人物で,民本主義というのを捉えます。民主主義とはちょっと違います。民主主義というと国民に主権があるように感じることができるんですが,この時代は天皇が主権者です。天皇が主権者ではあるのですが,その主権者たる天皇も「国民のためになるような政治をすべきである!」と そして「政治に民意をもっともっと反映させるべきだ!」という声があって,そのような背景があり,この大正政変からの流れがあり,ということで,ここで本格的政党内閣である原敬内閣が成立します。
寺内内閣
米騒動(1918)=米の廉売を求める騒擾
大戦景気による物価高騰+シベリア出兵のための米の投機買い
軍隊・警察を出動させて鎮圧=総辞職
原敬内閣(平民宰相)
本格的政党内閣とは,陸・海軍・外務大臣以外の大臣は,すべて政党員であるという内閣のことですね。初の政党内閣といえば,あの第一次大隈重信内閣が初の政党内閣でしたが,あのときは132日間しか持たなかったんですよ。今回の原敬内閣は,1133日ということで初の本格的政党内閣といえます。原敬は爵位をもたないあ平民宰相といわれていました。じゃあ,原敬どんな手段で総理大臣になったかっていうと,彼は衆議院第一党の党首であると言うことで総理大臣になったのでした。では,ここからは原さんがやったことをリストアップしていきます。
小選挙区を導入したのとともに,選挙権の納税資格も3円以上に引き下げたということでハードルも下がり,大勢が選挙に参加できるようになりました。あくまでも普通選挙製の導入には慎重の姿勢をとっています。納税資格は最初は15円でしたが,第2次山県内閣のときに10円,そして原内閣のときに3円ですね。
ただし,平民宰相なのに,政党内閣なのに少しガッカリ感のある首相でもありました。それもそのはず,衆議院議員選挙法を改正し,選挙区制も1つの選挙区から2人以上当選する大選挙区制から,1つの選挙区から1人しか当選できない小選挙区制にしたんです。これがなぜガッカリ感なのかというと,たとえば学校の生徒会選挙にたとえるならば,会長と副会長と書記の3人を選ぶのが大選挙区制だとしたら,会長1人しか選べないのが小選挙区制です。3人選ばれたら,いろいろな生徒の意見が生徒会に反映されますよね?でも1人しか選ばれないとなれば,生徒の意見が反映されにくくなりますね。ですので,この時代の民衆からすれば,小選挙区制だと立憲政友会みたいに大政党に有利な選挙区制となるんです。
さらに,原さんというのは自分の政友会の支持基盤の拡充もきちんと考えているんですよね。次の選挙でも政友会がたくさん登場できるような仕掛けをしているんです。たとえば,鉄道網の拡充をやりました。これは庶民ももちろん喜びますが,もっと喜ぶ人たちがいるんです。地主・資本家など工場を経営している人たちです。田舎に鉄道を引っ張れば,交通の便がよくなり物資の輸送も効率良くなり工場経営がうまくいくようになりますよね。つまり,地主・資本家層から人気を得ることによって,立憲政友会を応援してもらい,次の選挙で勝ちやすくするといった戦略を織り込んだのがこの原さんなんですね。
さらに,教育の拡充もやります。でも,結局高等学校や大学へ行くことができる人たちっていうのはお金持ちなんです。もちろん教育に力を入れること自体はいいことなのですが,やっぱりお金持ちしか喜ばない高等学校令・大学令(1918年)をあえて原さんはやることで,お金持ち層の支持基盤を拡大しようとしたのですね。こうやってみると,政友会の支持を得られるような政策に力を注いでいるのがよくわかりますよね。
そして,選挙法改正(1919)はするのですが,当時の民衆らは「納税資格を0円にせんかい!」と訴えていました。しかし,原さんは「3円までは下げるけど,この普通選挙はまだまだ時期尚早や!」とこれを突っぱねます。ということで,普通選挙法にはかなり冷淡な態度だったのです。これが原さんに対するガッカリ感なんですね。だから勘違いしてはいけません。原敬は「平民宰相」とはいうけども,貧乏人ではありません。富裕層です。直接国税15円以上の納税をできたからこそ,国会議員に立候補し当選できたわけです。原敬は金持ちですし,立憲政友会は金持ち集団です。原敬は金持ち集団のキャプテンなわけですから,お金持ちにおいしい思いをさせる政策をやります。納税資格0円なんかにしてしまうと,貧乏人の意見も反映しなければなりませんからね。なんかガッカリですよね…。
原内閣=立憲政友会,平民宰相
最初の本格的政党内閣 ー 陸・海・外務大臣を除いて政友会党員
積極政策(四大政綱)
国防充実・教育の振興(高等学校令・大学令=1918年)
産業奨励・交通機関の整備(鉄道網の拡充)
選挙法改正(1919)
納税資格の引き下げ(3円以上)
※普通選挙法には反対
あと補足で,軍備の拡大もやっています。俗に八・八艦隊の構想などがなされます。このように原敬内閣は,積極政策を推進していくんですが,なぜか?というと,ここまで日本は非常に景気が良かったんですね。第一次大戦中から大戦が終わるまでは大戦景気と言われ,日本はかなり好景気だったんです。しかし,原敬内閣の後半は非常に苦しい状況に立たされます。突然,戦後恐慌に見舞われるわけですね。それまでは欧州が戦争している間に日本はボロ儲けしようと思って工場主とかが銀行からバンバン借金して,その借金をもとにどんどんを生産して,ヨーロッパやアジアの国々にどんどん売りつけていたわけなんですが,戦争が終わってヨーロッパの経済が回復してヨーロッパの生産が回復すると,パタンと売れなくなるわけですね。そして,戦後恐慌による財政の行き詰まりや汚職が続発してしまいます。政党内閣っていうのは,やっぱり政党員が内閣を形成するので,結局は数の論理になってしまうわけですよ。そこに行き着くプロセスで,賄賂を贈ったりして自分の利益を引き込んでまで,選挙で勝ちたいって思うわけなんですね。なので汚職が即発するということになるわけです。このようなお金の行き詰まりや汚職の続発によって,原敬内閣は不信感を持たれて,結局東京駅で原敬は暗殺されてしまいます。ではその次の内閣です。
高橋是清内閣(ダルマ宰相)
原に変わるも同じく政友会を与党とする高橋是清内閣が誕生します。高橋是清のニックネームはダルマ宰相です。
ご覧の通り,ダルマでしょ。高橋是清は若い時,英語教師でもありました。初めて赴任した学校で,最初の授業のとき高橋是清が教室に入っていくと生徒はみんな爆笑したらしいです。顔が丸すぎるってことで。「こら!人の顔見て笑うとはケシカラン!」って先生らしく叱るのですが,最後まで爆笑していた生徒がいたらしいです。その生徒こそが,「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の俳句でも有名なあの正岡子規なんですね。立憲政友会の政党内閣ですが,政治的には長続きはしなかったのですが,原さんが急死するという事態を受けて,引き受けたのが高橋是清です。高橋是清は,総理大臣としてやったことよりも,その後にやったことの方が重要性が高いのですが,ひとまず総理大臣としてやったこととしては,ワシントン会議(1921)ですね。ただし,高橋是清内閣はワシントン会議に参加して,四カ国条約,九カ国条約そして海軍軍縮条約に調印しました。この時の全権が加藤友三郎でした。
加藤友三郎内閣
さてその次の内閣ですが,高橋是清内閣のときの全権であった加藤友三郎が総理大臣に就任します。この加藤友三郎は日露戦争のときも優秀な指揮官として活躍し,人柄も優れていた人だったのですが,総理大臣になった途端すぐに病死してしまいます。次の総理は,加藤友三郎内閣と同じ海軍出身の山本権兵衛が就任します。
第二次山本権兵衛内閣
加藤友三郎が首相になり,しかし加藤友三郎は病死して,同じ海軍出身の山本権兵衛が次の政権においての総理大臣になるという,ちょっとした流れを掴んでおいてください。で,山本さんじゃ前も申し上げましたように人柄・能力ともに優れていて,人気も高かったわけです。一方で寺内正毅みたいに薩摩出身で軍閥出身ということもあって非常に人気のない人も中にはいるわけですねが,この山本権兵衛さんは人気があるんですよ。そして実力もあって実行力もある。みんなこの人!って思う人も多かったのですが,今ひとつ運がないんですよね。ジーメンス事件で責任とって辞める事になったりするわけなんですが,内閣を組閣しようとしているタイミングであの関東大震災が起きてしますわけです。関東大震災で混乱してるんですけれども,この混乱に乗じて,例えば 甘粕事件といって,関東大震災の混乱に乗じて甘粕さんっていう社会主義者を殺害する事件が起きたり, 時の皇太子がこの混乱のさなかに暗殺されかかるという虎ノ門事件もおきます。この皇太子は,大正時代の皇太子ですので,いわゆる昭和天皇にあたります。
当時体の弱かった大正天皇を補佐していたのですが,当時は摂政宮とを言われていたその皇太子も打たれてしまい,一命は取り留めるのですが, 総理は責任を持って辞任をします。このように,第一次大戦中から大戦後のいくつかの内閣について見ていきました。