140 政党の変遷
私の今までの授業でいくと政党の変遷がいまいち繋がってないと思いますので,今回はその政党の名前をつないでいって明治から昭和に至る政党の変遷を見ていきたいとおもいます。
まず,板垣退助が各地でいろんな民権団体を立ち上げましたね?それが愛国公党や立志社,そして愛国社でした。そして,この愛国者が国会期成同盟というふうに名前がわかってきました。この段階が自由民権運動の段階です。我々も政治に参加させろ!権利をよこせ!自由をよこせ!って段階でしたね。
そして,明治十四年の政変を経て国会開設の勅諭が発せられ,いよいよこのインディーズ団体は,国から認められたメジャー団体として昇格し,自由党へと変貌を遂げます。自由党は,もちろん板垣退助を中心とする政党です。フランス流の共和制をベースとする国民主権の国造りを目指しました。それに対して,君主と国民が共同して国を治めるイギリス流の立憲君主制をベースとしたのが大隈重信の立憲改進党でした。そして,もう一つは政府を支援する立憲帝政党です。立憲帝政党は福地源一郎ですね。このような形でメジャーデビューしたそれぞれの政党が登場しました。
立憲帝政党(福地源一郎)
そうすると,まず初期の内閣としては「イクヤマイマイ」の黒田・山県・松方あたりは自由党と激しくやり合うことになります。黒田や山県が予算を確保して軍備を増強したい!っ考え方ですので,国民寄りの自由党とは対立をします。ちょうどこの頃が,日清戦争前です。平和なときは国民も政府を攻撃していたとしても,いざ戦争になっちゃうとやっぱり「戦争に勝ちたいんや!」って気持ちに変わって,政府に協力していくんですよね。あと,いつまでも「反対!反対!」って言っているだけでは,いつまでも経っても自分たちで政府を動かすことができません。いつか政府の側には入り込んでいかなければなりませんので,このことが相まって,「イクヤマイマイ」の第二次伊藤博文内閣に自由党の板垣退助が入閣していくことになります。そして,のちに立憲改進党が進歩党と名前を変えるのですが,この進歩党のときも第二次松方正義内閣に大隈重信が入閣していくことになります。
さて,「イクヤマイマイ」の第三次伊藤博文内閣のときに,地租を上げたい!ってことで地租増徴案を提出します。しかし,地租を上げられてたまったもんじゃないのが誰ですか?そう,国民ですよね。ですので,国民よりの政党である自由党と進歩党が共闘して,この第三次伊藤博文内閣を倒そうといった趣旨で憲政党が出現します。「オヤイカサカサ」の第一次大隈重信内閣が誕生します。ここに自由党をずーっと引っ張ってきた板垣退助も入閣しますので,これを「隈板内閣」と呼んだりします。
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進歩党(大隈重信)
ただ,この憲政党ってのは伊藤博文内閣を倒すために出来た政党だったこともあり,もとから意見の異なる2つの政党が大連合しちゃっただけですので,倒しちゃった後はちょっとしたきっかけで空中分解していきます。というのも,尾崎行雄が共和演説ってのをしてしまい文部大臣を辞任することになってしまったので,そのポッカリと空いたポストを巡って,旧自由党系から出すのか?旧進歩党系から出すのか?って揉めてしまったために,憲政党と憲政本党に分裂していきます。
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憲政本党<旧進歩党系>
ではその次は「オヤイカサカサ」の第二次山県有朋内閣です。この山県有朋は政党嫌いの人間で,例えば軍部大臣現役武官制や,文官任用令の改正など,政党の影響力をどんどん排除していくような方針をとりました。政党の影響を排除しようとしたものの,今度はこの憲政党の方がむしろ第二次山県内閣に歩み寄っていこうとするわけですね。まぁ,考えてみれば板垣退助が入閣してからというもの,割とこの自由党は政権に近いところに位置していたわけですよ?だから,これからも政権をとっていくためには可能な限り権力者の近くにいておきたいわけですよね。
大接近
憲政本党<旧進歩党系>
このように憲政党がどんどん接近を強めていき,その流れに乗っかってきた政府側のオッサンが伊藤博文です。政権の側にいたい憲政党と,政党の力を必要とした伊藤博文が合流して立憲政友会が誕生します。「オヤイカサカサ」の第四次伊藤博文内閣です
伊藤博文④
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大接近 ⬇
憲政本党<旧進歩党系>
最初は自由民権運動で政府をさかんに攻撃していた自由党でしたが,伊藤内閣・隈板内閣・山県内閣に接近していって,ついには「ザ・藩閥」「ザ・元老」ともいえる伊藤博文と結婚してしまうんですから,この様子を見ていた人たちは「おい!最初は血気盛んに政府を攻撃していたのに,いつの間に権力を取りたいがために妥協して,結局は政府になびくのかよ!ブレブレじゃん!!」と嘆く人も多かったようです。例えば,幸徳秋水なんかはあの万朝報に「嗚呼自由党死すや」と批判論文を発表したりもしましたね。
では,憲政本党の流れも見ていきましょう。この憲政本党は,立憲国民党へと名前が替ります。そして,ここで桂太郎と立憲政友会の西園寺公望の間で交互に政権交代をする「オヤイカサカサ」の桂園時代へ入っていきました。
桂太郎①②
& 桂園時代
憲政党<旧自由党系>→→→→→→→→→立憲政友会(西園寺公望①②)
さて,「カヤオテハタカ」の第三次桂太郎内閣なのですが,どういう内閣かというと,二個師団増設が認められなかったからといって陸軍がゴネて陸軍大臣を勝手に辞任して,その次の大臣を陸軍が出さなかったので第二次西園寺内閣が倒れましたね。そして,陸軍閥であった桂太郎が総理大臣になったという流れがありました。このやり方はさすがにヒドイ!!ということで,第三次桂太郎内閣に攻撃をしていく第一次護憲運動が起こります。この第一次護憲運動の中心人物が,立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅です。
& VS 桂太郎③
第三次桂太郎内閣は,たまらず立憲国民党を分割して自らのシンパを作ろうとして立憲同志会を立ち上げるのですが,圧倒的多数の議員は桂太郎に反発したので,新たに立ち上げた政党は第三次桂太郎内閣の寿命を伸ばすには至りませんでした。
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そして,「カヤオテハタカ」の 山本・大隈・寺内内閣を経て,原敬内閣まで走りますが,この寺内正毅内閣も,桂太郎内閣と同様に,例えば米騒動など始まる一連の国民によるデモによって国民に辞めさせられた内閣です。そうすると,国民の意見を封じ込める超然内閣よりも,「オレたちを選んだのは国民の皆さんでしょ?」って言える本格的政党内閣がブームとなります。
山本・大隈・寺内・原
立憲政友会→→→→→→→→→→→→→
立憲国民党→→→→→→→→→→→→→→
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立憲同志会→→→→→→→→
そして,「カヤオテハタカ」「ヤキカワタハワイさ」の高橋・加藤・山本・清浦まで一気にいきます。
高橋・加藤・山本②・清浦
立憲政友会→→→→→→→→→→→→→
立憲国民党→→→→→→→→→→→→→→
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立憲同志会→→→→→→→→
この清浦奎吾内閣には,立憲政友会の高橋是清が入閣し,そして立憲同志会の方には加わらなかった旧立憲国民党系が,革新倶楽部という政党を一時的に作って,その後立憲政友会へと合流していきます。この革新倶楽部には犬養毅がいます。さらに,桂のシンパ的政党であった立憲同志会が名前を変えて憲政会となります。この憲政会には加藤高明がいます。
清浦(超然内閣)
(高橋是清)
立憲政友会→→→→→→→→→→→→→→→→→
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この3つの政党が三つ巴となって,超然内閣の清浦奎吾内閣に対して第二次護憲運動を展開していきます。ちなみに第一次護憲運動は,立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が,超然内閣の第三次桂太郎内閣に対して展開していきました。ということは,犬養毅は第一次も第二次も護憲運動に加わった護憲派の中の護憲派ということになりますよ。
ということでこの時代は,桂・寺内・清浦の超然内閣に対して,国民は第一次護憲運動というアクションを起こし,第二次護憲運動というアクションを起こし,初の本格的な政党内閣が誕生するなど,政党側が力を見せつけるような事件がいろいろ起きた時代でした。この後は,立憲政友会と,憲政会からかわった立憲民政党といった二大政党で推移していきます。ちなみに立憲政友会は「攻めの政友会」と呼ばれ,軍備を増強して大陸に打って出る形をとります。立憲民政党は外国と歩調を合わせた外交をとって戦争をある程度抑えた「守りの民政党」となっていきます。ちなみに第二次護憲運動で誕生した内閣が,「カワタハワイさ」加藤(民政)・若槻①(民政)・田中(政友)・浜口(民政)・若槻②(民政)・犬養(政友)となります。
田中 犬養
立憲政友会→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
憲政会→→→→→立憲民政党→→→→→→→→→→→→
加藤 若槻① 浜口 若槻②
なので,犬養毅にスポットをあててみると,第一次護憲運動は立憲国民党の犬養毅であって,第二次護憲運動では革新倶楽部の犬養毅であって,この後五・一五事件で亡くなる犬養毅は立憲政友会であり,この犬養ラインを追っていけばインプットが捗るかと思われます。
立憲政友会→→→→→→→→→→→→→→→→→立憲政友会(犬養毅)
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この後,犬養毅は五・一五事件で亡くなってしまい,結局は日本が戦争へと歩みを進め,政府が「やれ!」と言われたことに無条件に協力をする大政翼賛会という一つの政党になっていきます。
→→→→→立憲政友会
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→→→→→立憲民政党
今回は以上です。