日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

147 二・二六事件

昭和はをどんどん深まりを見せていきます。前回,犬養毅内閣まで来ましたので,「ヤキカワタハワイ」の斎藤実内閣を取り上げたいと思います。

 

斎藤実内閣

まず一つ目は日満議定書(1932年)です。この日満議定書というのは先の犬養毅内閣で独立宣言を行った満州国を日本政府が承認したという形になります 。いってみれば自作自演みたいなもんですね。中国東北部に軍事行動を起こし,そこに満州国を作らせて清の皇帝であった溥儀という人が執政しました。この溥儀の口から改めて「満州国を宣言したいんですけど,どうですかねえ?」と言わせていて,「日本としては,あなたが作りたいって言うんだったらいいですよ」ということで日本の自作自演の中でこの満州国という国を独立承認をするわけです。ところが,この満州国建国のきっかけになった柳条湖事件でを「中国のせいだー!」って言って軍事行動を起こしたことについてとある報告がリットン調査団から発表されました。「この柳条湖事件からの満州事変は日本のでっち上げのようだ」と報告が発表がされるわけですね。そのリットン調査団の報告を支持するかしないかということで決をとったところ,賛成42,棄権1,反対が1ということで,日本以外が全て「満州事変の正当性は日本にはない!」「日本の自作自演じゃないか」っていうことを言い出したわけですね。そこで日本は「みなさんが満州事変の正当性が日本にはないって言うのであれば,構いません。我々は出ていきます」といいながら, 国際連盟を脱退したのでした。この時の全権は松岡洋右という人物でした。英語で1時間にわたって説明したのですが,国際連盟には聞き入れられず,最後は国連の机を蹴り飛ばして議場から出ていったらしです。のちにメディアは「名誉ある撤退!」「颯爽とした松岡の退場!」と持ち上げるんですよね。

 

一方で,中華民国との関係はというと,日本軍は国民政府軍と上海停戦協定(1933年)という停戦協定を締結して,落ち着くことになります。

 

その後,日本は国際的に孤立をしていくことになります。ついには大正時代の後半からずっと標榜していた協調外交から脱退します。国際連盟を脱退するとともに,あの主力艦の保有率を定めたワシントン海軍軍縮条約の廃棄(1934年)を通告し,条約失効となったのがのちに登場する広田弘毅内閣のときでした。また,ロンドン海軍軍縮会議からも脱退します。実は,当時第2次ロンドン会議が開かれていたのですが,「もう国連やめたし,協調外交もやめたから脱退するわ」ということで,補助艦の保有率を定めたロンドン海軍軍縮条約も失効(1936年)となります。ということで満州国設立というのは,日本の軍国主義に引きずり込むことになり,日本はますます孤立を深めていくことになったのでした。

 

さて,そうこうしていくうちに,ますます軍は発言力を強めていくわけですね。それに代わるように,選挙背景に発言力を持つという政党の影響力は低下していきます。それまでの政党政治では,「 俺たちの政治に文句をつけるようだけど,オレたちを選んだのは君たちじゃないか!」ってことをベースにした政党政治,あるいは大正時代の中心であった天皇機関説が否定されていきます。軍にどんどん日本が引きずられていくような形になっていくわけですが,そうした中で起きた事件が二・二六事件(1934年)です。この時の内閣が「も広いし林も近いの」岡田啓介内閣です。

 

岡田啓介内閣

この内閣は,軍は軍でも海軍出身の首相です。どちらかというと穏健派(現実派)です。まあ海軍と陸軍っていうのを比較したときに,戦艦の性能とかけたお金の分だけ 軍隊が強くなるっていったそんな精神論ではなく,現実的でクールなものの見方をできるのが海軍なんですね。そこで陸軍は,「国防の本義とその強化の提唱」を発行し,「国はいかに軍を拡大し,いかに国を守っていくか。国の政治はこうあるべきだ!」ってことを軍が言い出すわけなんですね。

 

岡田内閣は結局,この陸軍に屈服した形をとります。そして,先ほど言ったような「天皇は神のような存在ではあるが,国の中では天皇は一つの役割の一つである」とする国体明徴声明天皇機関説を否認するんですね。つまり,岡田内閣は「もう天皇というのは神であって,それはもうアンタッチャブルなもので,役割とかそんなものではないんだ!」ということを言い始めたのでした。さあ,そこで今回のメインテーマである二・二六事件をみていくことにしましょう。

 

二・二六事件

さて,政党の中でもどちらかというと一方で立憲民政党の方は,財布を引き締め諸外国と協調していこうとする考え方でした。一方で,急進的な方は立憲政友会や財閥,そして陸軍の中でも統制派といわれる人々は,国益のためなら大陸進出,あるいは植民地拡大はやむを得ないとする考え方でした。そして,今回の主役はそんな急進的な陸軍の中でも最も急進派であるのが皇道派といわれる人達です。皇道派といわれるのは,青年将校が中心で,天皇親政の実現を図るのでした,ある意味 ピュアな人たちなんですよ。「官僚や財閥っていうのは,金まみれで権力まみれで見れで腐ってる!」「官僚や政治家ではなく,オレたちが国を動かすんだ!」「天皇の名のもと 国民を軍に従属させよう!」ということを考えるわけです。で,統制派はどちらかというと大人の集団で,財閥と彼の力を借りながら官僚や政治家の力を結集して総力戦体制を図るわけですね。

 

だから皇道派の人たちにとっては同じ陸軍でも統制派のことは気に食わなかったんですが,そういったピュアな青年将校の連中らが,兵士を率いて首相官邸・警視庁を襲撃します。いわゆるクーデターの開始ですね。この事件の中で殺害された人物として,高橋是清蔵相,前の総理大臣であった斎藤実内大臣,そして渡辺錠太郎教育総監らがあげられます,そして,「俺達のもと新たな国づくりをするんだ!」という皇道派青年将校たちがクーデターを起こし,東京の街を一時期が占拠してしまいます。「皇道派が掲げたのは腐った連中じゃなくて天皇を中心として天皇の名のもと俺 たちが国を動かすんだ!陸軍が国民を従属させる国を作るんだ!ピュアな俺たちがやるんだ!」っていうことで起こしたクーデターなんですが,頼みの天皇がこういったクーデターなんかを起こす奴らはケシカラン!ということで厳罰を与えるように指示が出されます。つまりピュアな青年将校らは反乱軍とみなされたのでした。そして,「君たちの気持ちはわかる。すでに昭和天皇も厳罰の決意があるわけだし,今だったら軍事行動を辞めて軍に戻ったら今回のことは目をつぶるから軍に戻れ!」といって,青年将校らを説得して反乱軍として鎮圧しました。結果的には皇道派青年将校らといえども陸軍なわけですから,その責任をとって岡田啓介内閣は退陣するのですが,これから先の内閣っていうのはまざまざと力を見せつけられた陸軍の顔色を伺いながらの政治を行っていくことになります。

 

今回は以上です。