日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

172 明治の文化⑥

今回は明治の文化の音楽・美術・建築といったいわゆるアートの世界のお話をしたいと思います

 

音楽教育の父ともいえるのが伊沢修二という人物です。伊沢修二は,小学校の唱歌教育を確立した人物なんですね。例えば,「ちょうちょ」「蛍の光」など,もともと西洋の曲に日本語の歌詞を乗っけてみんなで一緒に歌ってみましょうということで音楽教育に力をいれました。さて,この伊沢修二が中心となって設立されたのが東京音楽学校ですね。もちろん初代校長は伊沢修二になりますで,この東京音楽学校で学んだ人の中に,滝廉太郎という人物がいます。さきほども申しましたように,西洋の曲に日本語で歌詞を乗っけて歌う唱歌なのですが,全然違和感なく歌える曲もあれば,中には無理やり日本語の歌詞あてはめて,ちょっと歌いにくいという曲もあったので,そこで滝廉太郎はオリジナルの曲として「荒城の月」「花」などの唱歌もたくさん作曲しました。

 

西洋画

明治の美術でさかんだったのは,西洋画ですね。国を開いて明治維新が起き,文明開化派によって西洋の絵画が日本に紹介されると,その色彩感とか奥行き感とかに多くの日本人が魅せられてこれからは西洋画の時代だということで,政府もそれを後押しします。たとえば,工部美術学校という官営の学校を設立して,お雇い外国人でイタリアのフォンタネージが招かれて西洋画の技法が教え伝えられたといわれています。このフォンタネージに学んだのが,高橋由一です。この人はものを客観的にとらえて描く静物画がとても得意で「」などが有名です。ほかにも「豆腐」という作品もあげられます。そして,西洋画集団「明治美術会」が「収穫」を描いたことでも有名な浅井忠を中心に結集されます。他にもフランスで学んだ黒田清輝によって「白馬会」が設立されたりもしました。どちらかというと浅井忠ら「白馬会」の方が,明るく中間色を多用する光あふれる作芸から「外光派」ともいわれていて,黒田清輝の「読書」「湖畔」あるいは藤島武二の「天平の面影」そして和田英作の「渡頭の夕暮れ」などが有名作品として挙げられます。

 

日本画

明治初期はたしかに西洋画重視ではったのですが,ここにイタリアのフェノロサがやってきて日本がも含む日本の伝統諸文化も高く評価されました。ここで,日本画に回帰する動きがでまして,工部美術学校はここで一旦閉鎖されることになります。そして,東京美術学校が設立され,初代校長には岡倉天心が就任します。岡倉天心フェノロサとともに日本の伝統美術などを再発見しようとするスタンスです。そして,江戸と明治をつなぐ存在でもあった狩野派の子孫で狩野芳崖が挙げられるのですが,協力はするも設立の直前に亡くなってしまいます。他にも橋本雅邦などがあげられます。やはり代表作としては,なんといっても狩野芳崖悲母観音」ですね。そして,橋本雅邦は「龍虎図」です。なかなかダイナミックな構図が特徴的です。で,最後に団体ですが,それが日本美術院です。ここにも岡倉天心,そして橋本雅邦らが結成した日本画の団体です。この日本美術院から登場したのが,菱田春草ですね。この人も早くになくなるのですが,代表作として「黒き猫」があります。この猫のモフモフ感がめちゃくちゃリアルに表現されています。あるいは横山大観「無我」「生々流転」などが有名です。他にも下村観山の「大原御幸」あたりを押さえておきましょう。

 

このように西洋画が先にさかんとなり,あとから日本画の回帰もみられてにぎやかになってくる美術界なのですが,ここで文部省美術展覧会(文展が開かれて,西洋画・東洋画共通の発表の場がもたれました。

 

彫刻

では,美術のもう一つのジャンル・彫刻をみていきましょう。これもさきほどの工部美術学校が中心になってきます。ここで,さきほどのフォンタネージのようにイタリアからラグーザを招きます。ここで人物を彫刻した2人を紹介するならば,荻原守衛の「」「坑夫」ですね。そして,朝倉文夫の「墓守」などが代表的な作品として挙げられます。彫刻においても日本の伝統的彫刻である木彫というジャンルがありまして,高村光雲が有名です。

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高村光雲といえば資料集をめくったときに思わず目が止まってしまうほどの作品で「老猿」などが有名ですね。

 

建築

続いて建築ですが,まずはコンドルですね。イギリスから招かれてニコライ堂というロシア正教東方正教会)の建物を作っています。また,日本人では辰野金吾日本銀行本店を,山東赤坂離宮を建築しています。