日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

029 国際情勢の変化/浄土の信仰

目次

今回は平安時代の外交と中期の仏教について。キラキラと輝く唐が衰退すると、東アジアにおける勢力地図も塗り替えられるようになったんだ。そして、宋や周辺諸国の攻防が次第にめまぐるしくなっていくのもこの時代だよ。

遣唐使の派遣を廃止

遣唐大使(リーダー)に選ばれた菅原道真の提案により、894年に遣唐使の派遣が廃止されたんだ。廃止された主な理由はきちんと答えられるようにしておこうね。 

  1. 航海の危険性が高い
  2. 衰退していく唐からはもはや学ぶものはない。

 一言でいくと『ハイリスク、ローリターン』ということだね。唐王朝にとって最大の内乱となった安史の乱が9年間にも渡って及んだことが衰退の原因ともいえるんだ。このおかげで日本は国際文化をあまり受けない日本独自の国風文化が根付いていくことにつながるので覚えて置こう。

 

その後の中国 

菅原道真遣唐使の派遣を中止したことは案外当たっていて、907年、ついに唐は滅亡することになるよ。そして『五代十国』の混乱期が訪れます。分断対立を示すその名のとおり、中国は混乱期を迎えることに...。

 

それを再統一したのが『宋(北宋)』王朝だ。日本にとって国レベルでの交流こそなかったものの、民間人レベルでは活発な交流があったようだよ。宋の商人は九州の博多に書籍・陶磁器そして薬品などを携えてやってきて、かわりに金や水銀、真鍮などを持ち帰ったんだ。

 

では、中国のことに触れたので、その他の国についても触れてみよう。

 

周辺諸国の変化

世界史ではこのあたりを詳しく説明するんだけど、日本史では簡単に触れておく程度にしています。

  • 中国北東部

中国東北部では、渤海が滅亡すると、契丹族を建国した。さらに時代が進むと遼の勢力が拡大し、徐々に宋を圧迫することに。そして、のちに、女真族によってが建国された。

朝鮮半島では、新羅の内乱状態が続いたんだよ。そして、高麗新羅を滅ぼし、半島を統一したんだけど、日本はこれらの諸国とも、正式に国交を結ぶことはありませんでした。

 

日本が鎌倉時代に入ると、遼は女真族という国にとってかわり、宋はさらに南へと追われて南宋となります。朝鮮半島はあいかわらず高麗が続きます。

目次

今回は、平安時代中期の仏教の特徴について迫りますよ。その前に少し復習を!

復習

奈良時代の仏教ってどういう仏教だったかな?奈良時代では、でっかい仏像を作って派手に拝むんでしたよね。「どうか仏様!この国を治めて下さい。この国を沈めて下さい。飢饉や疫病が起こりませんように…。」といったように仏教パワーで国を治める、仏教のチカラを国の政治に利用する、つまり国家としての仏教という位置づけでした。なので、道鏡のようなくそ坊主が権力を握り出したのでした。

 

しかし平安初期では、これまで仏教の影響が強大すぎた奈良を捨てて、新しい地であるここ京都の地に都を造り、仏教の影響をなるべく少なくしたんでしたね。仏教は国のものではなく、個人のもの。個人の現世利益(実生活の利益)のために祈るのです、秘密の呪文を唱えてね。ですから平安時代の仏教のことを「密教」と呼ぶのでした。

 

では、平安中期の仏教のことを一言でいうと何かというと、新たな仏教のスタイルである「浄土教」という形になるのです。

 

浄土教の流行

阿弥陀サマにお願いして天国へ行こう!

浄土教というのは何かというと、阿弥陀佛サマを信仰するんです。さぁ、阿弥陀佛サマを信仰すればどんないいことが待っているか分かるかな?浄土教の浄土っていうのは、いわゆる極楽浄土とかの浄土(あの世)のことだよ。つまり、阿弥陀佛サマを信仰して来世(死んだ後のあの世)で極楽浄土に行こうとする教えのこと。少し極端な例え話かも知れないけど、「現世(今の世の中)は苦しいことばかりで、人と人と憎しみ合い、殺人や強盗があるし、いがみ合うといったあまりいい世の中ではない…。だからこそ現世(今の世の中)はあきらめてせめて死後は天国へ行かせてください、阿弥陀サマ!」といった考え方が浄土教の基本スタンスとなるわけです。

なんでこんなにマイナス志向なの?

それにしてもネガティブ発言が少し気になるところですよね(私のクラスでこのような発言をするものがいれば必ず指摘しています)。なぜ人々はこんなに後ろ向きな人々で溢れてしまったのでしょうか。ここでその背景を探ってみることにします。結論から言うと末法思想の流行が背景にあります。

f:id:manavee:20171009180956j:plain

仏教を始めたお釈迦サマが亡くなって以降2000年間は釈迦パワーでこの世は守られていたのですが、そのパワーが途絶える西暦1052年以降は、末法の世の中が待っている。だから、世の中は乱れて荒れた世の中になるのだ、だから現世は諦めてせめて来世は天国へ行こう!という思想が流行したのでした。

流行の仕掛け人

空也上人(ニックネーム:市聖・いちのひじり)

空也さんは人々の多く集まる京の市に出向いて、布教活動に注力しました。空也さんのインパクトのある写真がこちら。

f:id:manavee:20171009175532j:plain


口からにょーろんと何か伸びていて、そこには6体の小さな仏像が確認できますね。これは空也さんが何か言葉を発すると、言葉が小さな仏様の形となって次々に現れる様を表したものです。つまり、天国へ行くための合言葉「南無阿弥陀仏」が6体の仏像になっているというわけです。なかなか面白いものがありますよね。この空也上人像は京都の六波羅蜜寺に現存しており、足を運べば今すぐにでも空也上人像を拝むことができます。

源信(ニックネーム:恵心僧都・えしんそうず)

応天門の変で失脚した伴善男のライバル・源信(みなもとのまこと)と同じ字ではありますが別人ですよ。源信(げんしん)さんは、「往生要集」という名の浄土教パンフレットを発行して、みんなに配り歩いて「阿弥陀様にすがって、せめて死後は天国へいこう!」という布教活動に励みました。

 

さて、熱心な布教活動家がいたということはわかりました。そして、阿弥陀サマを信仰すれば死後は天国へ行けるということもなんとなくわかってきたよね。でも、どういう風に阿弥陀サマにすがれば天国へいけるんだろう?いいことをすればいけるのかな?具体的なすがり方を教えて欲しいところです。そこで登場するのが往生伝です。

 

受験勉強を乗り越えて志望校に合格するぞ〜!

少なくとも、このmanaveeを見てくれている生徒の多くは日本史の成績を上げたい!大学に受かりたい!と思っているでしょ?でも受験勉強ってなかなか孤独で大変なものです。そんなときにモチベーションを上げる方法として「先輩の合格体験記」をみることをおすすめします。見れば必ず「あぁ、なるほど!こういう勉強をすれば大学に合格できるんだな」と思うはず。

 

この往生伝も「私はこれで天国に行きました!」という天国に行った人の合格体験記のようなものです。まぁ、死者が蘇りでもしない限り体験記を書くことなんて出来ないはずなので、「ほんまかいな!」と突っ込みどころはいっぱいあるのですが、いずれにしても、この時代の人々の多くは「あぁ、そうか!こんなことをすれば天国に行けるのか〜」といった様子で往生伝を熟読していたのでしょう。

 

<代表例>

  • 慶滋保胤(よししげのやすたね)「日本往生極楽記

が有名だよ。

 

浄土教美術

このような浄土教の流行を受けて多くの美術作品がのこされています。

建築

阿弥陀堂阿弥陀サマがいらっしゃる建物)としては、藤原道長法成寺阿弥陀堂藤原頼通平等院鳳凰堂が有名です。

f:id:manavee:20171009180534j:plain

彫刻

もちろん浄土教のカラーが色濃くほどこされた仏像が多い!仏像の中でも天国にアテンドしてくれる神様として阿弥陀如来がメインだよ。代表的なものとして、仏師(仏像を彫る人)の定朝作「平等院鳳凰堂阿弥陀如来」が挙げられます。

f:id:manavee:20171009180712j:plain

定朝さんの得意技 、寄木造といって顔や腕など各パーツごとに分けて木を彫って、そのパーツを組み立てて作り上げる手法です。

 

奈良時代の仏像は、国を治める力をもつ大きな仏像が主だったね。平安初期の仏像は、密教なので個人の現世利益を求めるということからサイズも随分と小柄なものが多くなっていったね。しかし、平安中期になると、再びそのサイズ感が大きくなっていく。なんとなくだけど想像できるよね?だって天国に連れて行ってください!って言っているのに、手のひらに収まるような阿弥陀サマだとちょっと不安になっちゃう。やっぱりある程度大きい阿弥陀サマの腕に抱かれて天国に行きたいなぁと思うのが人々の心境だと思います。そして、みんなが天国に行きたいと考えるようになると、その分だけ大量の阿弥陀サマが必要になってくる。阿弥陀サマの大量生産を可能にしたのが寄木造でもあるんだ。

 

絵画

絵画では、来迎図が盛んに作成されるよ。来て迎えてくれると書いて来迎図。つまり、阿弥陀サマがやってきて人々を極楽に連れて行ってくれる、こうやって私達を迎えに来てくれるとありがたいなぁという思いを馳せて描いたのが来迎図なんだ。代表的な来迎図としては、高野山聖衆(しょうじゅう)来迎図

f:id:manavee:20171009180812j:plain

阿弥陀サマをはじめ様々な仏様が我々を極楽に導いてくれるありがたい様子が描かれています。

 

浄土教以外の宗教について

では、平安中期の浄土教以外の宗教を紹介しましょう。

 神仏習合

奈良時代から少しずつ進んでいた神社の教え(神道)と仏様の教え(仏教)とが融合した神仏習合がさらに進展します。神道における願い事っていうのは例えば初詣で「受験に合格しますように」「おじいちゃんの病気が治りますように」「もてますように」など、個人の現世利益を願うことが主ですよね。でた!個人の現世利益・・・。そうですね、平安初期の時代に流行った密教天台宗真言宗)も個人の現世利益志向でしたね。つまり、神道密教というのは相性が良いので、だんだん両者の境目がなくなってくるわけです。このことを補強する理論として発生したのが本地垂迹(ほんじすいじゃくせつ)という考え方です。「神は仏が仮に姿をかえて世の中に現れている」という思想です。

御霊会

早良親王菅原道真といえば共通点は何だか分かりますか?そう、あることないこと、というよりもないことばかり疑われて左遷された可哀相な方々でしたね。そんな政治的敗者の魂を慰め、そして鎮める行事として開始されたのが 御霊会です。ちなみに、菅原道真は、当時左大臣であった藤原時平の策謀により大宰府に左遷され、恨みをもったまま死んでしまった。だから、天神(雷の神)に姿を変えて雷を落としたりするんだけど、その怒りがなかなか静まらない。そこで、大宰府天満宮に道真の魂を祀って鎮めたのでした。