030 国風文化
目次
さぁ、それでは平安中期の文化「国風文化」をみていこう。
復習
覚えていますか?平安初期の文化は「弘仁・貞観文化」といいましたね。中国の唐の文化を色濃く受けたんだったね。しかし、唐では安史の乱が起こり、次第に唐は弱体化の一途をたどるのでありました。「よつのふねで危険を冒してまで渡航する必要性はない」という菅原道真の提案もあり遣唐使派遣の中止が決まり、それに連動して唐の文化も日本に入らないようになり、そのかわりに日本の風土や日本人の人情・嗜好にかなった優雅で洗練された文化がメインとなっていきます。
文学・国文学の発達
国文学とは日本文学ということだから文字は、万葉仮名が発達します。夜露死苦と書いて「よろしく」と読むみたいな、暴走族の当て字ではないんだけど、漢字を用いて音を表す文字のことを万葉仮名っていいます。万葉仮名が次第に簡略されたものがひらがな。また、漢字の一部を流用して出来上がったものがカタカナですよ(伊→イ、加→カ)。しかしながら、公式に書く書類にひらがなを用いるのは恥ずかしいと感じる男性も少なくなかったんです。例えば、藤原道長が貴族社会を描いた日記「御堂関白記」などは漢字で書かれていますよ。
かな文字の発達
では、具体的に万葉仮名が用いられた使用例を見ていくことにしましょう。
古今和歌集
最初の勅撰和歌集です。勅撰というのは「天皇の命令によって選ばれた」という意味でしたね。これは古典の授業で詳しく勉強すると思いますが、「古今和歌集」から「新古今和歌集」まで合計8つの和歌集があるのですが、これをまとめて八代集といいます。少なくとも最初と最後の作品だけは言えるようにしておきましょうね。日本史最難関の立命館を受験する人は全部覚えておくに越したことはありません。
かな物語
和歌と漢詩を並べて詠んであるのが特徴で、この時代を代表する文学です。
- 「竹取物語」
「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。」という冒頭で始まる伝説を題材にした有名なかな物語です
- 「伊勢物語」
これは歌物語で、この伊勢物語は在原業平のことを描いているんじゃないかなと言われているのですが、ハッキリとはわかりません。作者も不明です。
- 「源氏物語」
中宮(天皇の妻、皇后のこと)彰子 に仕える紫式部の著です。彰子は藤原道長の娘。
- 「栄華物語」
藤原道長の栄華をたたえた歴史物語です。これも女性の手によってかなで書かれたのではないかと言われています。
その他にも「宇津保物語」「落窪物語」などがあります。
日記、随筆
- 「枕草子」
かな日記の最初といえば土佐日記。これを書いたのは紀貫之です。ただ、日記をかなで書くというのは女性や子どもが中心であり、大人の男性がかなを書くということは恥ずかしいされていたので、紀貫之は、自分が女だということを前提で書くわけです。
作者は、菅原道綱の母です。
菅原孝標の女。女と書いて「むすめ」と読んでください。試験では、蜻蛉日記の菅原道綱の母と混同しやすいので注意が必要ですよ。
建築
仏教建築は前回お話しましたので、貴族の普段使いの建築をみてみよう。貴族の住宅は寝殿造がメインですよ。
絵画
それまでの唐絵にかわる大和絵というジャンルが登場するよ。代表的な作家は巨勢金岡が有名です。美しい女性の顔を描くときの技法として、引目鉤鼻といって、閉じている眼を細長い墨線ひとすじで、低い外鼻は短い「く」の字形が特徴的です。
工芸
蒔絵の技法が使われるようになります。
漆の箱に金粉や銀粉をまきつけてで文様を描きます。ちょうど漆が接着剤の役目になっていて、漆の箱にキラキラとした装飾が施されているのが特徴的です。
また、螺鈿といって貝殻の光る部分を貼り付けて埋め込む技法もあります。
貝殻の光る部分て分かりますか?真珠やアワビの貝殻の内側ってキラキラ光っていますよね。その光っている部分を剥ぎ取って、漆の箱に文様として貼り付けていきます。
書道
弘仁・貞観文化では、唐様の書の達人として空海・橘逸勢・嵯峨天皇が三筆として有名でした。国風文化では、繊細で優美な味わいのある和様の発達がみられます。代表的な名手を「三蹟」といい、小野道風・藤原佐理・藤原行成です。藤原佐理さんは「離洛帖」という作品を遺しています。
貴族の生活
服装
貴族の正装は束帯(そくたい)といいます。略装は衣冠(いかん)。女性の正装は、女房装束(にょうぼうしょうぞく)いわゆる十二単のことですね。何枚も何枚も着重ねて裾の色がカラフルになっていくのが特徴です。十二枚もの重ね着はさぞかし重かったことでしょう。
成人儀礼
男の子の成人式のことを元服といいます。女の子の場合、裳着といいます。単純暗記になってはしまうのですが、このあたりをきちんと抑えておくことで確実に1点、2点とポイントできるので頑張りましょう。
陰陽道(おんみょうどう)
この時代、世の中があまり動かない時代でしたので、貴族たちも例年どおり無事に過ごせるかどうかということが関心事でした。そこに、陰陽道という影響が乗っかるわけです。例えば、「運命や吉凶を気にかける」「厄介事にならないよう災厄を避ける」など。
- 物忌(ものいみ)
陰陽五行(陰と陽、木火土金水(もっかとごんすい)※)の考えを採り入れて吉凶占い、凶という結果がでれば今日は一日おうちに引きこもっていました。
※万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという考え
- 方違(かたたがえ)
たとえば、西宮北口から大阪へ移動するとします。しかし、陰陽五行で占ってみたところ、どうも東は凶の方角のようだ。なので、遠回りにはなるけど一旦宝塚へ出向いてから大阪へ向かおうとするようなものです。つまり、凶の方角を避けて行動することを方違といいます。
このように貴族たちは、「できるだけ災いを避けたい」」という意識が強かったことが伺えますね。