031 受領と負名
目次
今回は、土地の変化とそれに伴う荘園のしくみについてです。土地の有り様が変化して、その土地を治める国を治める国司の変化について捉えようと思います。
復習
さて、土地事情についてはどんな時代だったかっていうと、口分田不足の解消のために百万町歩開墾計画や三世一身の法、そして墾田永年私財法などいろいろな対策をやってきましたね。しかし。平安中期あたりになると、公地公民あるいは班田収授がもう限界になってきました。そこで、醍醐天皇や村上天皇の時代(延喜・天暦の治)に、班田収授を最後としたのでした(902年)。
崩壊していく班田収授
そもそも、なんで班田収授や公地公民が崩壊してしまったのでしょうか?理由は、偽籍・浮浪・逃亡によってなんとか税を払わずに済ましたいと考える農民が増えてきたからでしたね。つまり、戸籍や計帳が機能しなくなったということになります。だって、戸籍を正確に作成しようとしても、農民達にごまかされるんですからね。男なのに女とウソの申告をしたり、戸籍調査の時だけどこかに逃げてしばらくすると戻ってくる、なんてことを延々が続けばどうなるか容易に想像できるよね?
延喜の荘園整理令
そこで、醍醐天皇はなんとか班田収授がうまくいくように延喜の荘園整理令を出します。延喜という年号は醍醐天皇ときちんと結びつけておきましょうね。有力な地主が自分のお金でどんどん荘園を広げていったおかげで国に収入が入らなくなっていったので、醍醐天皇は違法な土地所有を禁止したり、班田収授の立て直しを図ろうとしたりしたのでした。この状況を示す史料として有名なのが、三善清行が醍醐天皇に提案した「意見封事十二箇条」です。
飛鳥時代は2万人だった村が、平安中期では0人に!?
今の岡山県にかつて邇磨郷(にまごう)という集落がありました。飛鳥時代に皇極天皇が邇磨郷の人々に「兵隊になってくれるものはおらぬか?」と募ったところ2万人の兵が集まりました。天皇の一声で2万人が集まってくるとはなんと縁起がよいことだ、ではこの地を「にまごう」と名付けようということでネーミングされた邇磨郷ですが、奈良時代に人口調査をしたところ1900人にまで減っていることがわかりました。さらに、平安初期には70人にまで激減してしまったのです。「あれ?どう考えておかしいよなぁ」ということで三善清行が現地を訪問したところ、たった9人しか戸籍上ではいないことになっていたのです。さらに、清行の後任の担当者が調査したところ0人だったんだとか。このミステリアスな話の内容を記録したのが三善清行の意見封事十二箇条です。「戸籍が機能していないんだから、班田収授なんてもうムリです。みかど〜もうムリっすよ〜!」 といった感じで醍醐天皇に意見したのでした。
国司の地方支配
このように戸籍あるいは計帳が機能していないということに関連して、国司の在り方も変化していきます。戸籍・計帳で農民を把握できていないわけですが、そこに国司(その国を治める長官)が部下に対してこう言うわけです。
「わかったわかった。戸籍計帳で農民を把握できないのはわかった。でも税収がなければマズイことになるんで、とにかくどんな手段でもいいから税をかき集めてきなさい。そのかわり、取り分の一部はちょっとくらい自分のものにしてもいいからさ。とにかくこの国から税を集めてきてよ。この国の農民をちょっとくらい好き勝手にこき使ってもいいからさ。」
さぁそうすると、国司の影響力ってどうなる?強大化することになるよね。地方の支配者として振る舞うことになるんだからね。そこで、2タイプの国司が現れるようになってきます。
2分化する国司
遙任
京の都にいて、自分の担当の国を自分の家来(目代)に任せます。これを遙任国司といいます。遙任はなぜ代理である目代をわざわざ立てるのかわかる?それは、さらに上位に出世するためには、いつも権力者の側で遣いたいわけですよ。例えば、摂津国であればまだ都から近いのでそれほどでもないですが、筑前国とか大隅国となると都から随分遠く離れてしまうことになるよね。「権力者から離れたくない!オレは、常に権力者の側にいてゴマをすっておきたいんだ!」「自分の担当の国は家来(目代)にまかせて、私は常に権力者の側にいてゴマをすって上位へ出世したい!」と考えたのが遙任です。
受領
そして、もう一つのタイプが受領といわれる国司です。漢字を見てもお分かりのように実際に「受けて領する」つまり、自分の担当の国に赴いて政治を行うわけです。まぁ出世したところでオレは受領どまりだろう。さらに上位への出世もあまり見込めないだろう。「好きにしていいからさ。チョットぐらい税をちょろまかしてもいいからさ。農民をこき使ってもいいからさ。」と直々にいわれているわけだし、ここは言われたとおり担当の国に行って、受領である間は目一杯自分の懐に入れられるだけ入れてやろう。自分の欲を満たせるだけ満たして国司としての任期を終えてやれっ!」と考えた欲張りタイプの国司が受領となるわけです。
例えば、信濃守藤原陳忠(のぶただ)の欲深さが「今昔物語」でネタにされたりもしています。つまずいて転んで手をついた先にも、もしかするとお宝があるかも知れない!と土をつかんで起き上がるほど強欲な藤原陳忠、それくらい欲の皮がつっぱっている奴がいるんだぜってことで紹介されています。
もう一人、「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげ)」に訴えられ、国司をおろされたのが藤原元命(もとなが)です。元命さんはあまりにも欲の皮がつっぱりすぎていて、自分で私利私欲を肥やすために出挙などを使って民衆から搾取をし、民を自分の勝手がってに使っていくとても欲張りな国司だったために、百姓らから「あいつを辞めさせてください!」という解文(いまでいうリコール文書)を提出されて、最後は国司の座から引きずり降ろされてしまったんです。
補足
このように、「好きにしていいからさ、とにかくたくさん税を集めてきてよ」と命じられたことによって、欲張りタイプの国司も多く出現したのでした。しかし、欲が過ぎると元命さんのように辞めさせられることにもなるので、欲張り国司である受領たちも次第に「交代の時以外は、任国にいかずに目代を派遣して現地の役人・有力者(在庁官人)に任せて、間接的にコントロールしようとするようになります。
- 成功(じょうごう)
このように受領という官職は、非常に旨みがあるわけです。税を多めにとって一部を懐に入れることができるおいしい官職なわけです。そこで、受領という官職を得るために、権力者にさまざまな方法でゴマすりをしていきます。ゴマすりの方法その1は「成功(じょうごう)」というものです。例えば、権力者がお寺を建てたい!この儀式をやりたい!でもちょっと費用がかかるって場合に、権力者にかわって費用を立て替えたり、寄付をしたりする行為そのものを成功といいます。
- 重任
さて、国司ってのは旨みのある官職であることは分かってきましたか?しかし、官職には任期があります。だから任期が終われば、欲張りなこともできなくなってしまうわけです。そこで、もう一回やりたい!ということで、重ねて任じられようとする奴等もいるわけです。これを重任といいます。
このように国司の役割はかわっていったけども、根本的な解決にはなっていませんよね。根本的な解決というのは、戸籍・計帳が機能しておらず国が人口やら土地やらを把握できていないということでした。これでは崩壊した土地制度の立て直しができないということで、戸籍・計帳のシステムが次第に代わっていくわけです。
負名体制の確立
今までは、税は「人」に対してかけられていました。しかし、戸籍が崩壊すると税をかける先がなくなってしまいます。そこで、逆転の発想です。これからは、「土地」に税をかけ、税を払うことを条件にその土地を耕作させます。例えば、Aの土地を耕す人は10Kgのコメをを毎年納めないといけないっていうルールを定め、土地に予め税をかけておきます。そして、国の仕事としては、この土地に人が移り住んでくるのを見張っておくだけで済むわけです。もし、ある日Aの土地へ誰かが移り住んでこようとしたら、その人に「この土地は毎年10kgのコメを納めてもらうことになりますよ。それでもいいですか?」といった感じで。もし、その人が土地を手放したとしても、次にまたやってきた人に対して「この土地は毎年10kgの(以下略)」ということを繰り返すだけでいいのです。
田堵の出現
つまり、「人」は逃げるが「土地」は逃げない=「土地さえ見張っておけば取りっぱぐれを防止できる」という考え方です。そして、この土地のことを名(みょう)または名田(みょうでん)います。さらに、その土地、名を耕作する農民=税を治めることを承諾した農民のことを田堵(たと)といいます。
そして、やがてはこういうケースの田堵が現れるようになります。例えば、
- 国司「Aの土地を耕すのであればコメ10kgを納めないといけないですよ。もしBの土地を耕すのであればこちらは15kg納めてくださいね。」
- 田堵「では、仰せの通りAの土地を耕すのでコメ10kgを納めます。ってか、私まだまだ余裕があります。Aの土地に加えてさらに15kgも納めるのでAとB両方の土地を耕してもいいですか?」
- 国司「お、おう。」
というように、田堵の中には大規模な名を耕す大名田堵が現れるようになったのです。
税の名称も変更される
税の名称も今までの「租・調・庸」から「官物(かんもつ)」へ、「雑徭」から「臨時雑役(りんじぞうえき)」へ次第に変わっていきました。