日本史オンライン講義録

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033 武士の成長

目次

 

今回から時代が1つ進んで、平安時代後期へと突入していきますよ。これから先、武士が登場して、すっかり武士の世の中になるまで、その武士の成長過程を追っていくことになります。

武士の登場

さて、武士っていうのがいつ登場したのかというと、9世紀末から10世紀ごろ。班田収授が行われなくなって、最初の律令制度が機能しなくなっていった頃ですね。力を蓄えてきた地方の豪族、あるいは荘園を少しずつ増やしていった有力農民たちが、自分たちのエリアを守るために武装化し、各地で争いを起こすようになりました。「あいつらは強引に武器を手にとって、俺達の縄張りを奪おうとしている、どうにかしてくださいよ!」ということで、本来は軍団、あるいは健児などが控えていたわけですが、それがすっかり無力化してしまい、こういった紛争を抑えることができないままでした。

そこで、政府が特別にこういった役職を作りましょう、ということで押領使(おうりょうし)追捕使(ついぶし)が設置されたのです。そして、これらの役職に任命された下級の武士たちが次々と紛争地域に派遣され、鎮圧していきました。そして、手柄を挙げた者がその土地に残留し「武士のもと」になっていくわけです。

そうした武士のリーダー、いわゆる主人が家臣団である家子(いえのこ)やそれに従う郎党(ろうとう)を率いて、次第にこの武士同士が連合体を作って、武士団を形成することになります。そんな武士ですが、世の中に認知されるきっかけとなった出来事があります。

承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱

承平・天慶の乱っていうと耳馴染みがないと思いますが、平将門の乱藤原純友の乱のことを指します。ほぼ同時期に東西で起こった武士による反乱のことで、平安中期の朱雀天皇の時代です。これらの反乱の特徴として、反乱を起こしたのも、鎮圧したのも地方武士という存在が挙げられます。これによって、朝廷の軍事力低下が明らかになっていきます。この承平天慶の乱によって、朝廷の軍事力低下が明らかになり、そして地方武士という存在が世の中に認知されるようになった事件です。

平将門の乱

桓武平氏の一族である平将門下総国猿島(今の茨城県や千葉県北部)を根拠地として反乱に立ち上がりました。まず最初のきっかけとなった出来事は、自分の父親の所領を、おじの平国香に取られてしまったことからはじまります。怒った将門が国香を殺してしまいます。その後、またたくまに勢力を広げ、東国(関東地方)の大半を支配します。非常に人間的に魅力でリーダーシップもとれ、中央政府に不満を持っていた民衆もたくさんいたこともあって、平将門は勢いづきます。そして、東国の大半を支配し、あなたこそが本当の天皇です、といったように人々から厚い信頼が寄せられます。本人も「これからは私こそが新しい天皇である!」と言いながら自分のことを新皇を自称するようになります。

しかし、中央政府としても勝手に新皇と名乗る平将門を鎮圧しておかなければ示しがつきません。そこで、将門によって父が殺されてしまった子の平貞盛と東国最強の武士といわれた押領使藤原秀郷の軍が派遣され、将門は殺されてしまうわけです。

(参考)実は、藤原秀郷は最初は将門側へつこうとしていました。関東が大好きな秀郷でしたので、関東に新しいリーダー将門が現れたことはとても嬉しかったことでしょう。そして、将門のもとを訪ねます。しかし、秀郷が到着した時、タイミング悪く将門はお風呂に入っていたのです。将門が湯船に浸かっていると、「殿!藤原秀郷様が来られました!」との家臣の呼びかけがありました。将門は驚いた声で「なにっ!?東国最強の武士が私に会いに来てくれただと?わかった!今すぐ風呂から上がる。」といって喜びに満ち溢れ、あまりに急ぎ過ぎたために身だしなみもろくに整えることなく下着のまま秀郷と面会をしたのです。すると秀郷は将門の姿を見て唖然としてしまいます。「なんじゃ、こいつの格好…。下着姿とは完全になめてやがる!!」とでも思ったのでしょう。命をかけてここまでやってきたのにこのありさま、秀郷は将門に失望し、なんと将門のライバルであった貞盛側へとつくのでした。

そして、将門の首が京都の朝廷に送られたのです。朝廷では本当に将門の首かどうかを確かめるための首実検をするわけですが、その首の入った包みを解くやいなや、将門の首がポーーーンっと飛び出して、東国へ戻っていったというエピソードがあります。「平将門、心はいつも東国に」。東京の大手町にある三井物産本社の隣の公園に首塚として、今もなお将門の石碑が残っています。

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藤原純友の乱

伊予国周辺には海賊が多くいました。しかし、瀬戸内海の海賊たちは一人ひとりが独立して海賊行為を行っていたため、いつも朝廷軍に連戦連敗でした。そこで海賊たちは考えます。「海賊全員が納得できる偉いリーダーを決めよう!海賊の棟梁になってくれる人を。そうだ!あのお方がいるじゃないか!」と海賊たちは口を揃えて言います。あのお方とは誰なのでしょう?それは、伊予の国司であった藤原純友(すみとも)だったのです。なぜ純友なのかというと、実はその海賊たち一度藤原純友に退治された連中でしたので、力の強い海賊の棟梁としてふさわしいと考えたのでしょう。そんなことで白羽の矢がたった藤原純友ですが、かつて退治した海賊たちの味方に果たしてついたのでしょうか?なんと驚いたことに、海賊たちに懇願された純友は二つ返事で内諾しのだとか…。そして、伊予国としての任期が終わる最終日に藤原純友は、見送りにきた国府で働く人たちを前にして最後のあいさつを交わします。「皆さん、今日までありがとう!私は今この瞬間、海賊の棟梁となります。」といって、その後は自分の赴任先であった伊予の国府や、大宰府を攻め落とすなどかなり大規模な反乱を起こしていくのでした。そして、この反乱を鎮圧したのが、追捕使であった小野好古(よしふる)、源経基(つねもと)でした。

(参考)以上、大きな反乱を起こした将門と純友なのですが、実は反乱の前にこの2人は比叡山で会談をしたのではないかと言われています。平安京を見下ろしながら、純友が将門にこういったと言われています。

純友「将門よ、お前は偉大なる桓武天皇の子孫である。オレは藤原氏、だから将門よ、お前がこの国の天皇になれ。おれはお前を支える関白となる」こういった伝説があります。こういったことがあって、戦乱の世になっていったのでした。

さらに武士の認知度を上げたもう一つの事件がありますので、みていきましょう。

刀伊の入寇

認知度を高めたということは、武士の実力を示したということですね。どういう事件かというと、九州北部を刀伊(中国北部の女真族)が襲撃していったのですが、それに対して撃退したのが藤原道長の甥っ子にあたる藤原隆家率いる地方武士だったのです。おぼえていますか?お兄さんの女に手を出したエロ坊主花山法皇をびびらせるつもりで放った矢が命中し,のちに追放されたっていう話。はい,藤原隆家は左遷されたあと,朝廷に一度復帰したそうなのですが,目が悪くなったことが原因で九州にいる中国の名医に自ら看てもらおうということで太宰府へ移り住み,そのまま太宰権帥として九州で着々と実力をつけていったのです。

 

武士の役割

このように、承平・天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱)や刀伊の入寇で大活躍した武士たちですが、「なるほど!武士ってなかなか仕えるなぁ」「武士って強い存在で頼りになるんだなぁ」との口コミがやがて広がり始めます。そして、朝廷や貴族は、武士のことを「人に仕える=候ふ=侍ふ=さむらい」として、奉仕させるのでした。また、宮中では、滝口の武士として雇い、警備を行わせたのでした。

 

今回は、武士が誕生し、武士の存在が世の中に認知されるきっかけとなったいくつかの事件を追っていきました。そして、武士ってなかなか使えるじゃんということで、侍として奉仕させたり、滝口の武士として活用させたりしたというお話でした。以上です。