053 鎌倉幕府の滅亡
目次
いよいよ鎌倉時代から室町時代へと進んでいきます。しかし、鎌倉と室町の間には、後醍醐天皇の時代がありまして、今回は鎌倉時代から後醍醐天皇の時代である建武の新政へと移りかわるところをお話したいと思います。
朝廷の分裂
さて、鎌倉幕府が滅亡していくのですが、その背景は一体何なのでしょうか。一言でいうと朝廷の分裂ということが背後にあります。朝廷が2つに分かれるんですよね。後嵯峨天皇以来、後深草天皇というのがお兄さんで、亀山天皇が弟なのですが、この兄弟の間に対立が生まれて、朝廷が2つに分裂してしまいます。
両者のうち、後深草天皇の方は持明院統という家系です。一方で、亀山天皇の方が大覚寺統という家系です。 こうして朝廷が真っ二つに分かれて激しくお互いのことを目の敵にして混乱いました。このままではいけないということで、幕府がそこに割って入って「このままずっと対立しても仕方がないので、ここは一つルールを決めませんか?」ということで、幕府による調停により、両統が交互に天皇に即位するルール(両統迭立)を定めました。
もう一度おさらいをしておくと、①後嵯峨天皇から②後深草天皇、そして③亀山天皇と譲位されていくのですが、この辺から両統の対立が起こって、本来であれば持明院統へ渡さなければならないところを、亀山天皇は自分の息子(④後宇多天皇)に位を譲ります。そして、次に即位した⑤伏見天皇は伏見天皇で、息子の⑥後伏見天皇へ位を譲って、大覚寺統へバトンタッチしようとしなかったので、この辺りからさきほどお話したように幕府が割って入ってきて、「いいですか、今は持明院統なので、次は大覚寺統ですよ、その次は持明院統で、次の次は大覚寺統で・・・」ということで、⑦後二条天皇→⑧花園天皇→⑨後嵯峨天皇というように、後嵯峨天皇からみるとひ孫の代になってようやく両統迭立のルールが定まっていったことが見て取れます。
後醍醐天皇の時代
さぁ、そうすると⑨後嵯峨天皇が即位したという話をしていきたいと思います。後醍醐天皇はどっちの統かというと、大覚寺統ですね。さて、野心もあり能力もあるこの後醍醐天皇が即位しました。
天皇の権限強化
すると、野心家の後醍醐天皇ですので、天皇の権限を強化していきます。天皇と言っても名ばかりであり、鎌倉幕府が実権を握っているので、もっともっと天皇にいろんなことをやらせろ!ということで天皇の権限強化を推進したのでした。
そしてもう1つは、この中で鎌倉幕府の打倒を計画するようになります。何故だと思いますか?それは、⑥後伏見天皇→⑦後二条天皇→⑧花園天皇→⑨後醍醐天皇と来ているので、次は持明院統に移っていくではないですか。しかし、後醍醐天皇は自分の息子達に天皇の位を譲っていきたい、つまり大覚寺統で今後を独占していきたいわけですよね。やっぱり自分のかわいい子どもに自分の後を継がせたいわけですもんね。「かわりばんこ」というルールを定めたのが幕府である以上、だから幕府を倒そうという考え方が後醍醐天皇の中に芽生えていくわけです。
討幕計画(正中の変・元弘の変)
それで、実際に後醍醐天皇は幕府を倒そうじゃないか、相談しようじゃないか、兵を起こそうじゃないか、ということで討幕計画を企てるのですが1回目は失敗に終わります(正中の変)。そして、再び討幕を謀るのですが、この計画も失敗に終わります(元弘の変)。
後醍醐天皇の配流
このように幕府を2度までも転覆させようとした後醍醐天皇は危険人物だ、ということで、隠岐に流されます。その代わりとして、後醍醐天皇にとっては憎き相手である持明院統の光厳天皇が即位をします。ちなみに、光厳天皇は後伏見天皇の子にあたります。
鎌倉幕府の滅亡
後醍醐天皇は沖に流されたのですが、流されている間に後醍醐天皇の味方達が活動を展開していくわけですね。その代表的な人物である後醍醐天皇の子である護良(もりよし)親王や悪党の楠木正成らが挙兵をします。その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出しています。幕府の監視がきっとあったにもかかわらず、やはり天皇としては行動力がピカイチだった後醍醐天皇だったのでしょう。
やがては隠岐を抜け出して、鎌倉幕府の御家人の中にも後醍醐天皇の活動に同調する者が現れて、徐々に幕府を攻撃しはじめます。例えば、代表的な人物として足利高氏が挙げられます。足利高氏はどこを攻めたのかというと、京都ではあるのですが六波羅探題を攻略します。そしてもう一人いるのですが、新田義貞という人物が鎌倉を攻撃します。もとは御家人達ですので鎌倉幕府の家来、将軍の家来ではあるのですが、やはり世の中が乱れている、とくに執権の北条高時あたりは政治を顧みないということで、後醍醐天皇のおっしゃることは最もだ!ということで、鎌倉攻略に同調をし、ここに鎌倉幕府が滅亡するわけです。
さて、1つだけ補足をしておきましょう。それは足利高氏の名前です。足利高氏の高という字は尊という字じゃないのですか?という質問をよく聞きます。後醍醐天皇の本名は、尊治(たかはる)というのですが、足利高氏が鎌倉幕府の攻略に一役買ったということで名前の一部である「尊」という字を賜ったのでした。こうして鎌倉幕府が破れ、次は建武の新政へと話がつながっていきます。次回は、後醍醐天皇が政治権力を握って、その権力をふるうといった建武の新政のお話をしたいと思います。