日本史オンライン講義録

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054 建武の新政

目次

鎌倉時代から室町時代へと進んでいきます。室町時代のはじめの方をとくに南北朝時代と呼ぶことがありますが、この鎌倉と室町の間の時代を建武の新政といいます。つまり、後醍醐天皇による政治ですね。鎌倉時代は、将軍や執権による幕府中心の政治でした。これから学んでいく室町時代も、同じく将軍らによる幕府中心の政治です。しかし、建武の新政は、天皇による親政であるということですね。だから、武家政権武家政権の間の天皇による政治、これが建武の新政であるということが言えます。

後醍醐天皇の時代

建武の新政とは何かというと、今お話したように後醍醐天皇による親政です。親政とは、天皇が直接政治を行うことです。後醍醐天皇にはある理想がありまして、例えば、後醍醐という名前からもうかがわれるように、醍醐天皇あるいは村上天皇の政治を理想としています。醍醐・村上天皇の政治とは何かというと、平安初期のころに紹介した延喜・天暦の治が理想なわけですね。で、この後醍醐天皇の醍醐っていうのも、あの醍醐天皇を理想としたことから、その名をとっているのです。

普通、天皇の名前っていうのは、天皇が亡くなってからプレゼントされる名前がほとんどです。たとえば、昭和天皇の場合、天皇が亡くなるまでは「昭和天皇」とは言われないわけですね。現在の天皇、今の天皇のことを今上天皇といったりします。そして、天皇がお亡くなりになったら、その年号をとって「昭和天皇」というようにあとから名付けられるわけなので、ほとんどの天皇はあとから名前がプレゼントされるわけなのですが、さすが押しの強い後醍醐天皇ですよね。自分が生きているうちから「オレが死んだらオレを後醍醐と呼べ!」と日頃から話をしていたので、その名の通り後醍醐天皇となったわけです。

こうした天皇のもと、オレが政治をやるんだということになりますね。なので、「まず幕府なんてもってのほか、そしてオレは誰の補佐もいらねぇ」ってことで、摂政や関白は置きませんでした。そして、院政もなしにしました。天皇である私が政治をやるんで、そのような存在は不必要ということなんですね。そして、オレが命令するっていう天皇の命令文、この天皇の命令文のことを綸旨(りんじ)といいました。天皇が蔵人に直接しゃべり、それを蔵人が書き起こして最後に「、と天皇が言ってました」と付けるだけの超簡単な命令のことです。大臣クラスで検討されてから出される詔勅よりも、邪魔されず圧倒的な速さで出せました。後醍醐天皇は1番最初にこの綸旨が1番強いものだというふうに決めてしまったのです。つまり「僕がしゃべったことが法律ね」状態。

建武の新政のしくみ

それでは建武の新政のしくみ、後醍醐天皇が作った政府のしくみについて紹介したいと思います。まずは、天皇中心の世の中にしたいって後醍醐天皇が思ったので、天皇を中心に話をしたいと思います。そして、下のトーナメント図のような役割分担表からみていきたいとおもいます。

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中央

まず後醍醐天皇が政治の中心として置いたいちばん重要な役所が記録所です。記録所といえば、あの後三条天皇がつくった記録荘園券契所が思い出されますね。あの記録所が後三条天皇以降だんだんと機能が付け加えられて、一時は政治の中心として機能していた時期もありました。それが一時的に途絶えたりもしたのですが、後醍醐天皇が記録所を復活させて政治の中心に据えたわけですね。

そして、恩賞方(おんしょうがた)ですね。これは文字通り恩賞事務を行います。幕府を倒した功績があるので、あなたには土地を授けよう、みたいなことをやります。

そして、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)ですね。字面をみてもわかるように、さまざまな訴えを決断するわけですので、いまでいう裁判所みたいなものですね。この時代、もっぱら政治というと土地政策が中心になるし、もっぱら裁判というと土地のトラブルがほとんどです。ですので、主に土地がらみの訴訟をさばくということになります。

そして、武者所ですね。まぁ、武士中心の世の中から天皇中心の世の中にかわったわけですので、武士はどういう風な立ち位置になるかというと、その役割は以前と比べるとちょっと落ちて、「やっぱり武士は武士本来の仕事である治安維持をしなさい」ということになります。本来の武士の業務に戻りなさいっていうイメージになります。武者所の仕事は後醍醐にとって「ケガレ」と隣合わせなもので、自分はやりたくありません。なので、ここには頭人という明確なトップを起きました。それに起用されたのが、最終的に鎌倉を潰した新田義貞です。

以上4つの役所が、都に置かれた中央政府としての組織ですね。では、次は地方行政をみていきましょう。

地方

地方については基本的に鎌倉と東北という東国を監視するためのポジションを作りました。まずは鎌倉将軍府を、そして陸奥将軍府を置きます。やっぱり都からは離れるので関東の統治を任せたり、東北の統治を任せたりする役所を置くのです。ただ、幕府の名残が強く、守護は無くせませんでした。この地方を管理するというのは、要は反乱を起こさないようにチェックしているということなので、基本的には戦える人材でなければ務まりません。ただ、後醍醐は武士を嫌っていたため、トップに武士を起用するのがどうしてもやりたくなかった。そこで自分の息子をトップにし、その補佐として武士をつけることをします。鎌倉将軍府には【成良親王(なりよし)+足利直義(=高氏の弟)】を、陸奥将軍府には【義良親王(のりよし)+北畠顕家(きたばたけあきいえ)】のセットを起用しました。

さらに、各国には国司をおき、守護も置いていきます。守護は、本来の意味での守護、つまり国司をおいて治安維持を目的とした警察部隊を置いていくことになります。これが地方の置かれた組織です。

新政に対する不満

不満その①

しかし、今まで執権や将軍につき従っていた武士たちからは、この建武の新政に対して不満が噴出していきます。当然ですよね、それもそのはず武士の世の中から突然、天皇が中心に治めるということになったんですから、当然いろんな不満はでてくると思います。今まで主役だった武士たちの社会の慣習を無視してしまう、それが武士の不満としてふつふつと沸き立たせるわけです。鎌倉幕府を成り立たせるものと言ったら何でしたか?そうですね、御恩と奉公です。御恩というのはどういうものかというと、将軍様から御家人に対して新しい土地が支給されたり(新恩給与)、それまでどおり土地が認められたり(本領安堵)といって、土地の受け渡しによって御恩がくだされたのでした。でも、そういった慣習を無視して、土地の所有を綸旨天皇の命令書)で所領が左右される、つまり天皇の意思ひとつで所領が左右されてしまうことになります。その土地がたとえ頼朝様からずっと認められてきた土地であったとしても、ぶん取られたり、一方的にあなたはココ、君はソコって決められてしまうと、今までやってきた武士社会の慣習を無視されていると武士たちは不満に思うわけですね。

不満その②

どうしてもやる気のある人がしくみをガラっと変えてしまうと、しばらく混乱しますよね。たとえば、クラブ活動とかでも練習メニューを突然難しくしたり、練習日を365日ずっとするとかしてしまうと、「なんだよ!」ってなりますよね。それは国の政治も同じことがいえます。それが長々とやって落ち着けばいいのですが、新政がはじまった当初は、やる気のある人達によって政治のしくみがバタバタと決めたことで、社会が混乱したのでした。こうした社会の混乱が、二条河原落書でみてとれます。二条河原落書って何なのかというと、政府の批判文書を河原の高札につらつらと書かれているものです。

この頃都に流行るもの 夜討ち 強盗 謀(にせ)綸旨

召人(めしうど) 早馬 虚騒動(そらさわぎ)

 最近、都で流行しているものといえば、夜に起こる騒動、強盗、偽の綸旨である、と書かれています。土地の所有を綸旨で確認するのですが、そうすると偽物の綸旨を書いて「ここオレの土地!」っていうこともできるわけで、そういうことが流行ったのでした。ほかにも、混乱や騒動が起きたぞ!っていうことを知らせる人や馬が増えたり、虚騒ぎといって、わざと騒ぎを起こして、それを鎮めたのはオレだぞって主張をして恩賞をもらうことが横行したのでした。

 

このようにいろいろな社会の混乱は、あなた(後醍醐天皇)のせいですよ。こっちは迷惑してんだ!という落書を河原に掲げているということですね。作者は見つかっていませんが、そうした不満が世の中全体にあふれていたということです。

 

建武の新政終結

そういった人々の不満の中、北条氏の生き残りであった北条時行という人物が鎌倉幕府の復活をはかり中先代の乱を起こします。この中先代の乱の鎮圧のために、建武政府としてもエースの足利尊氏を送りこみ、みごと鎮圧に成功します。ところが鎮圧後、尊氏はそのまま関東に残り、逆にそこでの力を蓄えて京都にいる後醍醐天皇方を攻撃します。

 

ですので、足利尊氏といえば鎌倉幕府御家人でありながら、鎌倉幕府を攻撃しています。そして、建武の新政では、後醍醐天皇方のエースとして中先代の乱を鎮圧しにいったのに、逆に後醍醐天皇方を攻撃しました。ということで、足利尊氏は人生の中でなんと主君を2回裏切っているんですね。なので、足利尊氏はちょっと損な役回りあるいは後世からはあまり評価が高くはないわけですね。ただ、この足利尊氏が歴史を変えるキーパーソンとなったことは確かです。

 

さて次回は、そんな足利尊氏が将軍となり、南北朝時代あるいは室町時代へと突入するというお話をしていきましょう。