日本史オンライン講義録

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058 室町幕府の動揺/応仁の乱

目次

 

前回は、足利義満の話をしましたね。そして、義満がつくりあげた室町幕府のしくみについてのお話が中心でした。今回は、義満の次の将軍となる4代将軍・足利義持(よしもち)、そして、そのあとの将軍は非常に短命でしたので1つ飛ばした6代将軍・足利義教(よしのり)のお話をしようと思います。

 

4代将軍・足利義持の時代

それでは、義満の子である足利義持についてみていきましょう。この義持さんなんですが、実はちょっとモヤモヤしたものが2つばかりあったんですね。

そのモヤモヤしたものって何なのかっていうと、1つ目はやっぱりお父さんの義満の存在があまりにも大きかったんですよね。というのも、義持さんは、お父さんが若い頃から既に将軍の座を譲られて実際将軍の位は義持さんが持っていたんですけども、実際の政治はお父さんの義満さんがずーっとやっていたってわけなんですよ。ですから、義持さんからすると「なんだよ、僕が将軍なのに何もお父さんに政治のことを触らせてもらえない…。」ってな感じで、それはそれはモヤモヤしますよね。

それで、もう1つのモヤモヤはというと、義持には弟がいました。その名は足利義嗣っていいますが、お父さんはこの次男のことがどうもかわいくて仕方がないと思っていて、なので義満さんが死んだあとは将軍の位もごっそり弟を跡継ぎにしたいと思っているフシがあるわけですよ。そんなモヤモヤしている中で、お父さんが死んでしまって義持さんの政治が始まったわけなんですよ。で、弟を追い落としたことは追い落としたんですけど、義持さんからすると、なんとなくお父さんのことをあまり良く思っていなかったんですね。なので、足利義持の特徴として1つあげるとするならば、「父嫌い」であったといえるでしょう。若い頃、全然政治をさせてもらえなかった、あるいは弟のことばかり可愛がっていた、だからお父さんのことが大嫌いなんですね。ですので、お父さんのやった重要政策、それは何かというと例えば日明貿易ですね。

日明貿易の中断

お父さんのやった日明貿易を中断してしまいます。父のやった政策を否定していくんです。実際、中国と日本だったら、日本が明より下の立場という朝貢形式を嫌って日明貿易を中断したのですが、個人的にコレは父の政策の否定なんじゃないかなって思うわけです。

上杉禅宗の乱

さぁ、この義持の治世なんですが、義持自体はそんなに能力がないわけではなくって、わりと歴史上でも評判の良い方の将軍でした。反乱の芽があったら早めに摘み取るなんてこともやってのけました。具体的にいうと、関東で反乱を起こした上杉禅秀を鎮圧した上杉禅秀の乱などが挙げられます。実際、義持が将軍のときには室町幕府はわりと安定していたといわれています。

正長の徳政一揆

しかし、すでに室町時代はもう民衆の時代に入っています。例えば、正長の徳政一揆を一つみてもわかるのですが、今まで民衆が手を組んで、みんなで協力して一斉に自分たちの要求をしようじゃないかっていう動き(一揆)が起こった最初が義持の時代だったのです。

播磨の土一揆

いまの兵庫県西部あたりの民衆たちが守護であった赤松満祐の追放を要求しています。こうした民衆による抵抗運動が起きつつある時代が、この足利義持さんの時代と重なります。以上、足利義持は、お父さんが大嫌いで日明貿易を中断させた将軍であるというお話でした。では、次の将軍について見ていきましょう。

6代将軍・足利義教の時代

あれ?前の義持さんは4代将軍でしたよね?いきなり6代将軍ってなんで?って話になりますので、ちょっとだけ説明をしておきます。実は、義持さんが生きているうちに、足利義量(よしかず)に将軍の座を譲っています。ですが、この義量さんはちょっと身体も弱く頼りないところがあったので、義持さんが「じゃあ、かわりに自分が政治を見よう」ということになりました。そんな状況下での名ばかり将軍ということもあり、義量自身も政治権力を与えられていないことにも不満を持っていたので、義量さんはお酒に溺れて先に死んでしまうことになります。

義持から義教に行きたいところなのですが、実はこの義持さんは次の将軍を指名せずになくなってしまったんですね。病床に伏せっている義持さんに対して「次の将軍はどなたになさいましょう?」と側近が質問するわけですね。でも、義持さんはもう病で死にかけている寸前なので「ん、ああ、わしにはよう分からん、分からんわい…。」といった様子です。さらに側近が「次の将軍を決めないといけないので、是非名前を上げて下さいませ」というわけです。そうすると義持は何と言ったかというと「いや。もう、勝手にせいや。」というので、それに対して側近が「それでは将軍候補4人の中からくじびきで選んではいかがですか?」ってなことをいいやがるんですよ。そしたら、義持さんは「ん、わかった、わかった。もう勝手にせい。」と言うわけです。なので、この6代将軍・足利義教はなんとくじびきで選ばれた将軍なんです。

4代将軍・義持が病で倒れたときに、側近が「次の将軍誰にしますか?」との問いに、「わからん。勝手にせい!」と返したため、「じゃあ、くじびきでいいですか?」と提案し、「もう、そうせい!」と返して死んでいったので、くじびきで4人の中から選ばれて将軍になったのが足利義教です。なので、あだ名は「くじびき将軍」なんて言われています。

この義教のことを表向きは「ははーっ!将軍様!!」って言うんですが、裏では「けっ、運だけのくじびき将軍が…。」などと馬鹿にするわけです。しかし、裏で「くじびき将軍」って馬鹿にされていることを義教自身も知っているので、ことさらに威圧するわけですね。「オレに逆らうやつは容赦しないぞ!」ってさまざまな弾圧を加えて、公家や武家や僧侶すべてに弾圧的な態度でのぞんだり、気に入らない守護大名の領地を没収するなど、いわゆる恐怖政治といわれる専制政治をとりました。細かい政策をあげるとするならば、さきほど4代将軍・義持が中止した日明貿易を再開します。よくテストにでるポイントをまとめておきます。

日明貿易

【開始】③ 足利義満

【中断】④ 足利義持

【再開】⑥ 足利義教

というようになりますので、これは覚えておいて損はないと思います。さぁ、それでは話をくじびき将軍まで戻しますよ。

さぁ、そうしたら、このようにくじびき将軍なんていうあだ名を付けられて、専制政治をとっていた義教なんですが、ここでライバルが登場します。それは誰かというと鎌倉公方足利持氏(もちうじ)という人物です。足利持氏とは何者かというと、鎌倉公方だから幕府の鎌倉出張所のリーダーです。その人はもちろん足利氏の血縁者ですね。幕府としたら、ナンバー2にも近い役職なんですが、足利持氏は将軍選びのくじ引きには参加していないのです。なので、実力的にもナンバー2なのにも関わらず、くじ引きにも参加させてもらえないので、「オレだって将軍になる権利はあるぞ、あのくじ引き将軍め!」ということで幕府に対して反乱をおこします。そして、この乱を鎮圧したのが足利義教です。持氏をかくまったとして、結城氏を滅ぼします。この乱のことを結城合戦といいます。持氏の子はちょっと可愛そうで、幼いにもかかわらず、この足利義教の追手によって殺されてしまいます。

嘉吉の乱

この足利義教の恐怖政治によって、幕府のナンバー2ともいえる鎌倉公方でさえ滅ぼされるわけですから、守護大名の何人かは既に殺されているわけですね。そして、領地を奪われて殺された守護大名が何人もいると、有力守護大名赤松満祐が「次はオレの番じゃないか?」ってビクビクするわけですね。なので、殺されるよりは殺してしまえ、ということで足利義教を招いて宴会の席を用意しておいて、一緒に飲んでいたら、裏ではすでに兵を準備していて足利義教を合図とともに殺してしまうという乱が起こります(嘉吉の乱)。将軍が家来によって殺されるわけですから、これによって将軍の権利が低下してしまうということになります。

嘉吉の土一揆

さて、この嘉吉の乱のあと、将軍が当然殺されてしまいます、ある事件が置きます。将軍が殺されて将軍が変わるわけですが、歴史上でも将軍が変わったり、王様が変わったりとか、代がわりタイミングで、その次の人が人気を得るため、罪を軽減したり、恩赦とか、借金の帳消しとかしたのでした。だから、民衆の気持ちとしては、新しい将軍様に期待するわけですね。そして、将軍に対して「借金の帳消しをしてくださいよ」っていうことで要求をする嘉吉の土一揆がおきていきます。

 

さて前半は、足利義持足利義教といった室町幕府の中ではつなぎとなる2人の将軍を紹介しました。お父さんが嫌いで、お父さんの最大の業績の一つである日明貿易を中断させた4代将軍・足利義持。そして、足利義教はくじ引き将軍で、ばかにされているところから恐怖政治が始まり、永享の乱嘉吉の乱といった大きな事件がおきました。嘉吉の乱では、将軍家の親戚が殺されるなど、将軍の権利が低下したというお話もしました。なので、今回のタイトルのように、父嫌い・くじびき将軍によって室町幕府は少しずつ動揺をし始めるのです。

 

 

応仁の乱

 さて,応仁の乱ですが1467年に始まります。原因は8代将軍義政の放漫政治に端を発し,奥さんである日野富子が政治に介入します。具体的には,自分に子が生まれなかったので,時期将軍は義政の弟・義視で一時は確定していたのですが,そんな矢先に子・義尚が生まれたことが将軍継嗣をややこしくしたのです。富子からすれば,自分の子を9代将軍にしたい,政治に無関心の義政は恐妻の言いなりとなり,次期将軍候補をひっくりかえしたのです。そうすると,ハシゴを外された弟・義視は当然ブチギレますよね。そこで,将軍家では足利義政VS足利義尚の対立となります。同時に,将軍の補佐やくである管領同士も権力闘争をし始めまして,管領内では東軍:細川勝元VS山名持豊:西軍の対立もからんできます。そこに畠山家や斯波家の家中でも覇権争いが行われ,東軍・西軍に分かれて壮大な戦いが繰り広げられることになるのです。ここで東軍・西軍を細かく覚える必要はありません。開戦前と開戦後では東西のメンバーが入れ替わるのですが,テストでは出ませんので割愛しますね。

(参考)足利義視と義尚が東軍・西軍途中で入れ替った理由

①開戦当初は東軍優勢だった

②西軍が逆転

③責任を取らされるとビビった義視は伊勢に逃げる

④義政の説得で帰国

⑤しかし、義政が義尚を次期将軍にしようとする動きを見せる(義視暗殺未遂など)

⑥義視が比叡山へ逃亡(ことのき、細川は義尚に鞍替えしてた説が濃厚)

⑦義視は西軍へ

最後まで入れ替わらなかった東軍が細川,西軍が山名というのだけは抑えておけば十分です。ちなみに西軍の山名持豊は,14世紀末のあの明徳の乱で滅んだ山名氏清の子孫にあたります。正誤問題とかでこのあたりの細かい名前を揺さぶってくるので注意しておいてくださいね。さて,東西両軍にわかれて京都を舞台に覇権争いが起こりますが,やがてこれが全国へと飛び火しますしばらく戦いは続きますが,何のために戦っているのかいまいちポリシーのない内乱でしたので,勝敗もへったくれもないんですよね。どっちが勝ったか負けたかなんてないんです。そして,将軍だけは9代将軍足利義尚に決定するもの混乱したままの乱世はそのまま戦国時代へと突入していきます。

 

結果,何が残ったのかと言うと下剋上の風潮が高まりました。守護大名の勢力は衰退し,そのかわりに守護大名をささえていた守護代や国人が成長し,いわゆる戦国時代の主役になるような人たちが活躍していきます。あと,足軽というガラの悪い武士が登場したもの応仁の乱の特徴です。胴丸だけを装着して,やり一本の歩兵ゲリラです。何のポリシーもありません。金儲けのためだけに京都にやってくる非正規軍です。陣がありませんので,寒い冬の京都では住む家を求めて,町を襲ったり略奪したり,京都の文化財を破壊したりなどやりたい放題やっていました。この足軽の絵がかかれてある絵巻物が「真如堂縁起」です。それから,足軽の悪事を書いたのが一条兼良の政治意見書「樵談治要」です。抑えておいてください。

 

応仁の乱後 

 最後に山城の国一揆や加賀の一向一揆の話をしていきましょう。まずこの2つの乱は応仁の乱後に起こっていますので,流れを掴んでおいてくださいね。

 

さきほどやった正長の土一揆や嘉吉の土一揆というのは,惣村の土民らが主体となった一揆でしたが,今からやるのは国人が主体となった一揆なのです。国人といえば,守護大名の下で働く支配者側の人間なのですが,そんな国人たちが土民達と結託して守護大名勢力に公然とは歯向かう下剋上があったのです。実は南北朝期から国人一揆はあったのですが,とくに応仁の乱以後多発します。

まず,応仁の乱下剋上の風潮が高まりました。この国人たちは在地領主層で守護大名を助けるのですが,場合によっては条件が合わなければ守護大名を倒すってこともありました。有名なのが山城の国一揆ですね。南山城といって京都の南部一帯で起こった事件ですが,南山城には実は守護大名が2人いまして畠山政長畠山義就両名です。っていうか,「オレが守護大名だ!」「いやオレだ!」っていう感じで暴れまくっているわけですね。そうすると土民達も農耕ができなくて困っていましたので,「いい加減にしてくれ!出ていけ」ってことで,彼らが取り上げた荘園の取り戻しや,関所の撤廃を要求したのですね。この畠山両名はあの応仁の乱で一大原因をつくった張本人ですね。応仁の乱が終わったにもかかわらず,この南山城にとどまって暴れていたわけですが,心ある国人たちが36人ほど集まって月行事をつくって,畠山両名を追っ払って,8年間の自治を作り出すことに成功します。学校に例えるなら,畠山校長が2人いてて喧嘩ばっかりするから,心ある先生たちが校長を追い出して,校長抜きで8年間学校を運営したっていうイメージですね。わかりますか?土一揆国一揆では誰か主となったのかで変わってきますので,正誤問題とかでは警戒しておいてください。