日本史オンライン講義録

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073 町衆の生活・南蛮の文化

前回と今回で、天下人となった信長・秀吉のころの文化、桃山文化を紹介しますが、今回は後半、町衆の生活と南蛮の文化といって天下人がつくった文化とはまた別の一つの文化の流れを話したいと思います。

町衆の生活

町衆の文化、この町衆ってなんですか?っていうと、文字通り町の人々の生活のことです。例えば京都であるとか、秀吉のお膝元である大坂、大きな自治都市であった堺や博多などの都市で活躍する富裕な町人のことです。世界史でもこの頃に都市貴族っていうのが現れて、今までの貴族っていうのは王様から土地や位をもらって偉そうに振る舞うっていう時代から、お金持ちが偉そうに振る舞うっていう時代に変わっていくのですが、日本史でも同じように文化の担い手が、今まで権力者から土地や位をもらって偉そうに振る舞っていた人々だけでなく、お金持ちセレブなんかが町人の中から現れるようになったのでした。そんな町衆の間で、茶の湯の伝統を受け継いで発展していきます。

茶の湯の流行

茶の湯のスタイルを固めて茶道として確立した人物が登場します。この人が何を軸として据えたのかというと、茶の湯というのは簡素にして閑寂の精神をもつ飾り気のない侘び・寂びを重視しました。

侘び茶

いったん茶室に入ったら今までの身分を捨てて、お金を捨てて、欲を捨てて、そして主人と客人の関係のみである。両者を介在するのはお茶であるといったようなとても簡素・閑寂・無駄を廃止、贅沢心をすてた侘び茶というスタイルを確立していくわけです。そういった千利休茶の湯の代表として挙げられるのですが、秀吉もこの茶の湯の大スポンサーとなります。

北野大茶会

秀吉が京都の北野で開いた有名なお茶会のことを北野大茶会といいます。秀吉がプロデュースして北野で茶会を開くのですが、せせこましい茶室ではなく、とにかく広いフィールドにみんなで茶器を持ち寄って集まれ!ここには当然、秀吉の側近らも参加したのですが、民衆たちも参加しました。こういうオープンなところが秀吉の人気を集めたともいえるでしょう。こういった天下人もお茶を嗜むわけですので、大名の中にもお茶を嗜む人が現れるわけです。

織田有楽斎

たとえば、織田有楽斎(うらくさい)といって信長の弟ですね。お茶の道にはいって千利休の弟子になって、のちに大名となった徳川家康に仕えるわけですが、この人は武将だけではなく茶人としても名を馳せたという点が有楽斎の生き方の上手さかなと思います。この織田有楽斎如庵という茶室は今でも国宝になっていることから、織田家を存続させたという意味では有能だったといえるでしょう。そのほかにも、小堀遠州古田織部らが挙げられます。じょの古田織部なんかは、独特の装飾的な茶器をつくっていくわけですが、茶器をガッチャーンわざと割って、その割れた破片を溶かした金で接着させることで、新たな風合いを出す手法を編み出しました。このような大名の茶人も登場するわけです。

すぐれた茶室

そうして、千利休は秀吉の命を受けて妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)という茶室を造りました。この妙喜庵というのはわずか畳2帖しかない非常にせまい茶室です。

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しかし、こうしてみると狭さを感じさせない千利休の工夫が随所にこらしてあって、たとえばこの中にある調度品のスケールも、小さな部屋に大きな掛け軸をかけるのではなく、小さな部屋にはそれに合った小ぶりな掛け軸をかけるなど、とても繊細な施しによって狭い部屋を広く見せたのでした。また2帖という空間の中で自分と相手の二人でじっくりとお茶を嗜む千利休の気持ちがこもった部屋。それが妙喜庵待庵です。そして、さきほど登場した織田有楽斎の如庵という茶室も代表的です。

町衆の娯楽

もちろん茶の湯も娯楽の一つではあったのですが、ほかにも女性である出雲阿国(いずものおくに)という人がスタートさせた歌舞伎踊りが挙げられます。

歌舞伎

この歌舞伎っていうのは派手好みっていう意味があるのですが、この漢字を充てて別名阿国歌舞伎(おくにかぶき)ともいいます。出雲阿国という人物が派手派手しい服を着て、歌い、踊りいわゆるショーを行うのですが、それによってお金を手にすしていく興行が庶民のとくに女性の間でも流行していきます。「私もやってみよう!」「私も!」「あたいも!」ということで各地で女歌舞伎が発展していきます。こうして、女性の出雲阿国が初めた歌舞伎が、女の人たちがやるようになり、各地で綺羅びやかで派手派手しい格好で歌って踊って劇仕立てのショーを魅せるようになりました。そして、その演者の中には遊女といわれる如何わしい女性も現れるようになり、そうすると風紀が乱れてしまうんですよね。だって、男の人達っていつの時代も、綺羅びやかな衣装をまとった歌って踊れるアイドルが好きじゃないですか?なので、のちに江戸時代になると女歌舞伎が江戸幕府によって禁止されてしまい、かわりに若衆歌舞伎 へと姿をかえていきます。若衆というのはまだ前髪を落としていない若い男の子が歌い踊るわけですね。でも、それはそれでそういった趣味の人がセクハラ的な場面をまた期待したりして風紀が乱れたんでしょうね。ですので、歌舞伎のスタイルも野郎歌舞伎へと進化してしったのでした。

阿国歌舞伎 → 女歌舞伎 → 若衆歌舞伎 → 野郎歌舞伎

ところで何で歌舞伎っていうのは坂東玉三郎らのように、男の人が女役を演じるようになったのか気になりますよね。それは、このように、初めは女の人が歌舞伎を演じていたんだけども、風紀が乱れると理由から若者の男の子に演者の担い手が変わっていくのですが、それもまた禁止されて成人したおっさんしかダメです!ってなったので、現代でも成人したおっさんが女の役をして踊るという風になったのです。 

人形浄瑠璃

三味線の音楽を伴奏として、人形を動かすいわゆる人形劇みたいなものが流行っていきます。

隆達節(りゅうたつぶし)

そして、流行歌のような感じで皆に親しまれたのが、堺商人の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)です。このような小歌に節をつけて歌うようになっていきます。

人々の生活の中で服装についても教科書で書かれているので紹介をしておきます。人々は小袖といわれる服をきていました。男性は平服として袴(はかま)あるいは裃(かみしも)を着用していくようになっていきます。この裃なんていうのは、江戸の時代劇とかで武士がよく着ている服ですね。

南蛮文化

では残すは南蛮文化ですね。信長は、宣教師らが城下町とかでキリスト教を布教することは良しとしていましたし、秀吉はバテレン追放令を出すものの、そこまで弾圧&弾圧というわけでもありませんでしたので、ある一定の宣教師の活動はあったようです。そういう宣教師らによって伝えられたポルトガルやスペインとかのようなヨーロッパ文化としてたとえば、天文学・医学・地理学ですね。海の向こうのことは宣教師にきくしかないわけです。このような実用的学問の伝来、油絵銅版画の技法伝来などが特徴としてあげられます。また西洋の影響を受けた南蛮屏風とよばれる異国の風情の絵も描かれるようになりました。そして、とくに特徴的なものとしては活字印刷術です。活字というのは文字のスタンプを並べてインクを付けて押す印刷術です。この技術を伝えたのは宣教師であるヴァリニャーニです。そうして、この活字を利用して本を作ろうじゃないかということで、たとえば西洋の物語を日本に紹介した伊曽保物語(イソップ物語であったり、辞書である日葡辞書(にっぽじしょ)が出版されるようになりました。これらの辞書を宣教師が伝えた手法で出版したのでキリシタンとか天草版とかいわれています。で、このイソップ物語とは逆で、日本の物語を西洋に伝えるためにローマ字で書かれたりもしました。このように南蛮文化といって宣教師らに伝えられた文化が桃山文化の特徴であります。

まとめ

前回と今回の2回にわたって、天下人の文化、町衆の文化、そして南蛮文化という桃山文化を構成する3つの文化についてご紹介しました。今回は以上です。