日本史オンライン講義録

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074 江戸幕府の成立

信長・秀吉ときて、今回からは家康の登場です。つまり、江戸時代へと突入することになります。平安時代も相当長い時代でしたが、この江戸時代もそれに輪をかけたような長さで授業では1ヶ月くらいかけて話を進めていくようなボリュームになっています。この江戸時代は、大きく3つに分けることができます。まず第1弾では「江戸幕府の成立とそのしくみについて」、第2弾では「幕府の政治が安定して元禄時代を迎えるお話」、第3弾では「改革とか改革とか改革とか、江戸時代の中でも大きく動いていく時代」の以上となります。じゃ、まず家康の話をしておきましょう。

徳川家康

信長、秀吉ときて家康です。この家安は最初三河の大名だったわけです。幼少期のころには人質になったりして非常に苦労人なのですが、それが彼の忍耐強い性格を形作ったともいえるでしょう。信長と秀吉のいた尾張地方(愛知県の西部)とくらべて、家康は三河地方だったので、派手さ・商売っ気のある尾張にくらべると少し地味な風土で、粘強いあきらめない三河の性格であったといえます。それがちょっとこの家安っていうのが、明るいというキャラクターではなくタヌキおやじといわれる少し陰険なキャラクターといっていいのではないでしょうか。そして幼少期はいろいろと人質にとられたりするのですが、独り立ちしてからはとくに今川義元を倒した織田信長と同盟を組んで勢力を拡大していくことになります。そして、織田信長は、本能寺の変で亡くなってしまうわけですが、ここも家康はうまく乗り切り、今度は秀吉とも小牧・長久手の戦いで陣を構えて秀吉に「こいつやるな!」ってところを見せておいてから、秀吉の臣下の礼に入るという家康ならではの上手さがうかがえます。ただ、この三河地方(東海地方)を本拠地としている家康に対して、秀吉は北条氏を倒したあとに「いっそのこと関東に移ったらどうだ?」と言われてしまうのです。家康としては本拠地を離れることは不本意だったのですが、秀吉のいうことをここは一旦聞いておいて関東へ移ります。

 

関東は当時、東海にくらべるとあまり栄えてなくて、秀吉によって進められた江戸ってところは寂れていて漁村というイメージだったのですが、「ここなかなかいいじゃん!」とでも見抜いたのでしょうかね、かえって広い関東平野を徳川家の財政基盤や軍事基盤を作ったとも言われています。そして、秀吉の臣下に入った家康は、五大老の一人として、秀吉の死後もその地位を高めていくのでした。秀吉がなくなってしまえば、次は家康じゃない?というふうにみんな考えていくわけです。

関ヶ原の戦い

しかし、日に日に発言力を増していく家康に対して、「いやいや、待った待った!いまは秀吉さまの子どもである秀頼さまがご健在なのに、豊臣家よりも徳川家のほうが発言力を増していくのは善くないのではないのか?」として、家康のことをよからぬ存在ととらえるグループもできていくわけです。あくまでも豊臣氏政権を存続し家康の成長を押さえたいというグループと、家康がやはり盟主であって家康を盟主として押し立てるグループに大名たちがそれぞれ分かれていくんですよね。これをいわゆる「天下分け目」の戦い、1600年関ヶ原の戦いといいます。 

西軍

秀吉がなくなった後、大名の対立が表面化しきました。まず、西軍といわれる負けた側にはなるのですが、石田三成といわれる人物を中心とし、毛利家・上杉家といったビッグネームの大名ら(毛利輝元小西行長上杉景勝ら)を味方につけて西軍を組織しました。これを豊臣政権ともいいます。あくまでも秀吉の息子・秀頼を立てて豊臣家の存続を諮ります。

東軍

次は家康方を紹介しておきます。家康は、東軍を組織して、黒田長政福島正則らを味方につけます。彼らも豊臣政権自体は認めるものの、「まぁ家康がやはり盟主ではないか、家康にここを治めてもらったほうがリーダーシップも発揮できるしいいのではないか?」ということで、家康を中心に推進しようとしました。で、結果は西軍と東軍どちらが勝ったのか?というと当然東軍が勝利します。これはみんな知っているのですが、実は東軍は最初から楽勝ムードでもなかったようです。

 

関ヶ原の地形をみるとわかるのですが、笹尾山・松尾山・南宮山という3つの山があって、石田三成西軍を率いて戦場となる場所から一番離れている笹尾山というところに陣取って味方を展開していきます。そして、この笹尾山の手前にある松尾山に小早川秀秋を陣取らせます。小早川秀秋という は、秀吉の奥さんである北政所(寧々)の甥っ子にあたります。だから秀吉の血縁者として小早川秀秋を松尾山へ陣取らせます。そして、大大名である毛利秀元を南宮山というところに配置します。この時点で、笹尾山・松尾山・南宮山に囲まれたところに家康軍を誘い込むことに成功したので、実は西軍の方が圧倒的に有利な状況だったのです。

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しかし、家康には秘策があったんですね。家康は根回しの達人です。実は、毛利秀元に関しては毛利家の分家である吉川家の吉川広家を裏で手なづけていたのです。家康は吉川広家に対し、「毛利家というと毛利元就以来、中国地方の名家である大名です。もしこの戦いに負けてしまったら毛利家が潰れてしまうかもしれない、あなたが毛利家を釘付けにしておくことで毛利家が戦いに参加させないようにしておきなさい。そうすれば毛利家は戦わずして済むわけで、戦わなければ毛利家が潰れることもないでしょう。」ということをうまく吉川に吹き込んで毛利の動きを封じ込んだのでした。

ですので、毛利家は動かない。さらに、小早川家にも厚い手当てをしています。「小早川さん、合図を送るから裏切ってよ!三成の方を攻めてよ!」と働きかけるわけですね。で、戦いが始まるのですが、合図を送ってもなかなか小早川は動こうとしないので家康は少しイライラするのですが、小早川秀秋がついに決断をするわけですね。

小早川は家康の側に向けていた軍隊を、三成側に向けて一気に軍を進めます。三成側は、家康方と対峙する格好でしたので、形としては、山を下りながら横合いから登場した小早川秀秋に横腹を突かれた状態となるわけですね。そして、家康方の軍隊が三成側に一気に前進して殺到する。というように、高地を利用して家康を完全包囲した格好になっていた三成に対して、不利な状況の家康は毛利の動きを封じ込め、小早川を裏切らせることによって、三成の予想を完全に外して逆に三成を包囲して倒した、これが関ヶ原の戦いです。

結果

結果は、いま言ったように三成の画策した家康包囲網が機能せず、小早川の寝返りが西軍の敗北を決定付けたといってもよいでしょう。この小早川秀秋ですが、家康方についたことで勝利をもたらしたので関ヶ原の戦いの功労者でもあり、家康から恩賞ももらえてそれはそれで良かったのですが、敵味方から散々言われるわけですね。味方からは「あんたのお陰で確かに勝ったのかもしれないが、やっぱりあんたは裏切り者だからなぁ〜」だし、敵からは「オマエのせいで西軍は負けたんだ〜」というわけですよね。小早川秀秋はもともと小心者でメンタルが弱かったこともあったため、晩年はちょっと気がおかしくなってしまって、家来を殺したり、逆上して犬を殺したり、酒におぼれて体調を崩してしまって死んでしまうという最期を遂げたのでした。ちょっと可哀想な人ですね。そして、負けた西軍の石田三成、そして小西行長は処刑されてしまいます。石田三成なんかは、実際はなかなか優れた人物で良い奴だったのですが残念ながら負けてしまうわけです。そして、西軍諸大名の多くは改易(かいえき)=領地没収にあうわけです。そして、家康と肩を並べるほどの家柄であった毛利輝元上杉景勝は取り潰しにはあわないものの、減封(げんぽう)=領地削減されてしまいます。

 

江戸幕府の成立

その結果、徳川氏が実権を握っていよいよ江戸幕府が開かれることになります。徳川家康1603年征夷大将軍に就任し、諸大名に江戸城の築城を命令しました。江戸城江戸幕府の重要な本拠地となるお城ですので、これを全国の大名(手伝普請(てつだいぶしん)、天下普請(てんかぶしん))に命令をして、忠誠を誓わせました。そして、諸大名に、国絵図(くにえず)郷帳の作成を命令します。これは、諸国の地図とか、また諸国にはどういう村があってどういう土地があるのかといったリストを出させて、いわゆる大名らの領地を丸裸にして反乱を起こさせないようにする意味合いが強かったといえます。

豊臣家の滅亡

では、秀吉の後継ぎとして豊臣秀頼という人がいましたが、彼はどうなったのかというとあくまでも一大名の地位へとされてしまいます。豊臣家からするとちょっと悔しいでしょうね。家康に権力を奪われて、自分達に協力してくれていた石田三成らが関ヶ原の戦いで破れてしまい、自分自身は一大名の地位へ転落していったわけですからね。しかし、実は秀頼には一つの期待がありました。それは、家康といえども結構爺さんであるし、家康が死んでしまえば、きっとまた自分に従ってくれるだろう、と考えていました。そこを家康はうまく利用します。家康の息子である徳川秀忠に将軍職を譲ることにしました。家康が死んだらみんなオレのもとに戻ってくるに違いないと考えていた豊臣秀頼によっては、家康が秀忠に将軍職を譲るっていうことはいいかえれば、将軍家は代々徳川家で世襲していくぜ!って宣言されたようなものですね。ずっと天下は徳川氏のものだということをアピールするわけです。じゃあ、将軍職を退いた家康はどうなったのかというと、将軍職を退いた前の将軍のことを「大御所」と呼びます。

大坂の役

ですので、家康は大御所として引き続き実権を握り続けることになったのです。「これからもずっと徳川家が権力を握っていくのだ!豊臣家ではなくてね。」と宣言された秀頼たちは怒るわけですね。この野郎、家康め!ということで、豊臣家が家康を倒しにかかるわけですね。これを大坂の役といいます。

方広寺鐘銘事件

秀吉の時代から建造が進められてきた大規模なお寺である方広寺なのですが、その方広寺の鐘に刻まれた文字に言いがかりをつけて、豊臣氏に戦争をしかけました。どんな言いがかりなのかというと、「君臣豊楽」「国家安康」という文字がおかしいやないけ!というものです。

国家安康っていうのは、国が安んじて健やかに平和でありますように、という願いを込めて刻んだつもりなのに、家康が「家康という字を分断して、オレのことを恨んでいるんだろ?」とイチャモンをつけたわけですね。

君臣豊楽っていうのは、君主と庶民が楽しみを分かち合って豊かな世の中を作りましょう、という願いを込めて刻んだつもりなのに、家康は「ち〜が〜う〜だろっ!文字を逆にすれば豊臣ってなるじゃないか。豊臣を主君として楽しもうとしているって意味じゃないか」ってこれまたイチャモンをつけたわけです。

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つまり、この釣鐘の字に対して言いがかりをつけて、戦争に持ち込んで豊臣氏を根絶やしにしようとしたわけです。いやぁ、さすがに家康ですね。根暗でタヌキおやじな性格がにじみ出ている事件ですね。まず大坂の役はさきに大坂冬の陣、そして大坂夏の陣という順です。このいずれも豊臣方は戦いをうまく進めることができず、豊臣家は滅亡してしまいます。本当は、真田幸村のお話なんかもしたいところなのですが、大学受験ではまず幸村はでてこないのでここでは省略させてください。

 

今回は、家康を中心とした関ヶ原の戦い、そして大坂の役を経て、家康が幕府を築き権力者として上り詰めていったお話でした。今回は以上です。