日本史オンライン講義録

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075 幕藩体制の確立

前回は、タヌキおやじとも言われた徳川家康ですが、関ヶ原の戦いでは根回しによって敵を足止めしたり、敵を裏切らせたりして勝利をもぎ取っていくのでした。そして、大坂の役ではお寺の釣鐘に掘られている文字に言いがかりをつけて戦争に持ち込むといった、タヌキおやじといわれるだけあって人を馬鹿したような手口で幕府を開き、権力者の地位に上り詰めたのでした。

今回は、江戸時代の将軍の名前を挙げながら紹介をしていきたいと思います。

初代将軍・徳川家康

家康はまず将軍になって大阪の役を片付けて、そして出した命令があります。

一国一城令

そもそもお城ってのいうのは1つの国にいくつもあるわけです。たとえば戦国時代であれば大名の1つお城がったら、その国に置かれた他のお城と連携をしながら、1つの城が敵に攻められているときに後ろから襲うために軍隊を置いておくためのお城とか、大名の居城である本城があったとしたら、裏山の頂上付近にこもって応戦するためのお城とかがあったりしました。これは全て戦争のために築かれた城ですよね?なので家康は「もうワシが将軍になったのだから平和な世の中がやってくる。」「おぬし、そんなに城をたくさん築いてもしやワシと戦う気かい?」などとプレッシャーをかけ、家康と戦う意思がないことを態度で示させようとしました。こうして大名の居城を1つに限定して、それ以外の城を壊させる命令を出しました。これを一国一城令といいます。

武家諸法度

そして、武家諸法度を出します。大名たちのルールを決めたんです。これは武家諸法度の中でも元和令(げんなれい)という名前の武家諸法度です。武家諸法度は何度かに分かれて改定&改定という形で出されるのですが、まずこの元和令というのが最初の武家諸法度となります。この武家諸法度は、家康がアドバイザー的存在としていたお坊さんで崇伝(すうでん)に作らせます。内容としては、大名の統制を行う法令です。

まずここまでが、家康がやってのけた功績です、

2代将軍・徳川秀忠

秀忠は、父の意向を受け継いで諸大名らに権力を誇示する動きをみせていきます。たとえば、関ヶ原の戦いで活躍した大大名も権力の前には無力であることを世に知らしめよることで権力の安定をはかっていきます。

領地宛行状

徳川秀忠は全国の大名や寺社あるいは公家に対して、領地宛行状(りょうちあてがいじょう)といった領地の確認文書をだしました。全国の大名に対して、元からその土地はその人のものだとしても、「その土地はあなたのものですよ!」と改めて言われることによって、「あぁ、そうなのか。自分の土地なんだけど、幕府からお墨付きがもらえたことはありがたい。」ってなりますよね。このように、領地宛行状の受け渡しにおいて、一体どちらが立場が上であるかもハッキリするというものでした。これを宛行っただけではなく、もう一つ権力を示すような事件がありました。

福島正則の改易

前回、関ヶ原の戦いで紹介した福島正則のところで、改易(かいえき)という言葉がでてきましたね。改易とは領地取り潰しのことでした。福島正則関ヶ原の戦いで一生懸命戦って、先行東軍で一番といわれた男です。だから東軍勝利の原動力を作ったうちに一人といわれています。それが広島の大名だった小早川秀秋が死んでしまって福島正則に「あなたに広島のお城を献上するよ」と言ったのです。福島正則は広島のお城の城主となったわけですが、行ったことがある人はイメージ出来るんじゃないかと思うのですあ、広島っていえば三角州がたくさんあって川の河口に町が広がっている地理的特徴があります。もちろん広島城も、川と川が入り組んだ三角州に位置していおり地盤が弱いので、いくら強固に組まれた石垣でもチビチビで削り取られて壊れていくんですよね。福島正則としては、広島城の石垣を修繕しながら使っていかなければならないのです。武家諸法度の中には「お城を改築したり、修築する際には必ず幕府に届けなければいけない」という条文が明記されていたのですが、福島正則としてはそれに違反したんです。福島正則としては、お城を大きくしたりリフォームしたりする気はさらさらなくて、地盤が弱いために石垣が壊れたから、いつもの修繕工事だという認識だったのですが、幕府は武家諸法度にのっとって「ならんならん、福島正則!オマエは領地取り潰しだ!」として改易にあったのでした。さきに述べた領地確認書と同じように、関ヶ原の戦いでナンバー1の働きをした福島正則といえども権力の前には無力であることを世に知らしめようとする幕府の魂胆が見え隠れしているといえるでしょう。もうここまで来ると、将軍の権威に誰もが怯えながら毎日を過ごしていくという世の中ですね。将軍家の思い通りです。

3代将軍・徳川家光

家康・秀忠は戦国時代を知っている将軍でしたが、「よは生まれながらの将軍である。遠慮せずに政治をやっていくぜ!」といったのが3代将軍・徳川家光です。秀忠も家光に将軍の座を譲って自分は大御所になります。将軍は家光の時代、肥後の大名加藤氏を処分します。このように有力大名を処分し、誰が権力者であるかをハッキリさせました。

武家諸法度寛永令)

これで、将軍さまには誰にも逆らえないという雰囲気が作られ、家光は武家諸法度寛永令)を発布します。そして、その中で参勤交代を義務付けました。大名は江戸と国元を1年交代で往復させられました。そして、大名はこのように江戸と地元を往復させられたのですが、大名の妻子を江戸に強制移住させました。大名の妻は国元ではなく江戸にいるということは、実質的に嫁さんを人質に獲られたも同然ですよね。こうして人質を捕ることによって大名の反乱を予防するという目的がありました。そして、このルールを守らせるってことで大名を上手くコントロールしようとしたのでした。

さて、この参勤交代がどんな影響を生んだのかというと、実は江戸時代の参勤交代というのは大名たちにとって多額の出費を強いられました。しかし、幕府としてはこのお陰で交通が発展し、全国から江戸にヒト・モノ・カネが集中して江戸が大きく発展していったのでした。以上が、徳川家光のやったことです。

このあと、江戸の幕府のしくみであるとか、宗教政策、あるいは経済政策、大名の統制とかを深く見ていきたいと多みます。今回は、江戸幕府序盤の3人の将軍についてのお話でした。今回は以上です。