日本史オンライン講義録

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078 武士と農民と町人(身分制度)

前回は、宗教やお寺のしくみ、前々回は朝廷と幕府の関係、そしてその前は幕府のしくみとやってきました。このように今は江戸幕府のしくみについていろいろお話をしている最中です。そして、今回は身分制度について紹介したいと思います。江戸時代の身分制度って言ったらアレでしょ?士農工商でしょ?って確かにそうなのですが、かつては上から順番に士農工商とも言われていました。しかし今は教科書とかでは武士が特権階級として存在し、それ以外の身分として農・工・商のような人々がいた、くらいの説明にとどめてあるんです。なので、士・農・工・商ではなく、士・農工商といったイメージで捉えてもらえればと思います。

 

武士

では、武士についてお話をしましょう。もう幕府や藩の在り方については説明をしましたので、一般の下級武士についてお話をすると、この武士には大名や将軍などに仕えるさまざまなタイプの武士がいたのですが、いわば江戸幕府の支配階級を形成しているのが武士です。さて、特権階級としての武士なのですが、武士にはどういう特権があるのでしょうか。代表的な特権は苗字を持てるということです。そして、帯刀といって刀を携帯することができますし、無礼をはたらいたものに対して斬り捨て御免などのような特権をもつ身分でありました。そして、この武士はどのような暮らしぶりをしていたのかというと、いざとなったら藩を守ったり、将軍さまを守ったりする存在でしたので、彼らが藩やあるいは幕府からお給料を受け取ることができました。

 

地方知行制

その受け取り方としては、地方知行制(じかたちぎょうせい)です。たとえば50石取りの武士がいたとしたら、最初に50石の土地をもらいます。この領地の中には領民がいるのですが、武士は実際にその土地の支配者として振る舞って「おい年貢を出せ!」ということで領民からの収入を得ていました。これを地方知行制といいます。

 

俸禄制

そして、のちに俸禄制へと移行していきます。俸禄制とは、実際に武士の一人ひとりが領地をもらうのではなくって、藩全体から獲れる年貢米を一括して蔵に納めて、そこから一人ずつの給料が支払われるしくみです。ですので、例えば50石獲りの武士であれば、その蔵から50石の年貢米を受け取ることになります。つまり一旦、藩が一括して年貢を徴収し、給料としてのコメ(蔵米)を藩から受け取るようになります。まぁ、こちらの方が合理的でわかりやすいですしね。

 

農民

次は農民です。農民はコメを生産し、年貢米として藩や幕府へ納め、その年貢で藩や幕府が運営されるので、この農民を上手にコントロールして一定の年貢米を安定的に払ってもらうことが江戸幕府のひとつ肝だったわけです。この農民にはいろいろ種類があります。

本百姓

まずは本百姓(ほんびゃくしょう)といわれる農民がいました。これは、自分の土地をもち、自分で耕作する百姓のことです。

水呑

自分の土地を持たない農民もいまして、これを水呑(みずのみ)といいます。

土地を借りたら、借りただけのレンタル料を払わなければなりません。このレンタル料のことを小作料といい、この水呑たちは収穫した分の小作料を払いました。

名子・被官(なご・ひかん)

名子や被官と呼ばれた農民らもいます。これは、有力な本百姓と隷属関係にある百姓で、いってみれば本百姓にお仕えする家来のような農民です。名子とか被官と呼ばれる人たちは、本百姓に仕える者どもってことですね。

 

村の運営

このような農民らの住む村の運営は、基本的に本百姓のみによって運営されます。水呑や名子・被官は村の政治面にはタッチすることはできません。

 

村方三役

村の代表格の人たちのことを村方三役といいます。三役ですので、3つあります。まずは、名主(なぬし・みょうしゅ)です。この名主は場所によって呼び名が異なっていて、西日本では庄屋、東北地方で肝煎(きもいり)といったりします。これらが村の代表です。そして、名主を補佐するのが組頭(くみがしら)です。そして、最後に百姓代です。この代は、代表の代です。百姓の代表ってことですね。

結・もやい

村には、度々共同作業(「結」「もやい」という集団を構成)をしなければならない慣習がありました。たとえば、田植えや稲刈りですね。一家族が細々とやるよりも、複数家族で集まってみんなやったほうが育ちがいいわけですよね。そういうときにはたくさんの人が必要ですので、村の中ではより近しい関係の家族で、結とかもやいとかを構成して連帯をして共同作業をしていました。あるいは、屋根に茅や藁を作る際に、これもある程度の人数を投入してやったほうが効率がいいので、結やもやいといった共同単位で作業をしていました。TOKIO鉄腕DASHというTV番組では、かつてDASH村の屋根ふきをしていたのですが、やはり20人くらいで同時に隊列をなして屋根を吹いていましたね。まさに結とかもやいといった単位での共同作業です。

村入用

あるいは、村の経費というのは共同で負担するのですが、村入用(むらいりよう)といいました。

村のルール

村のルールは村掟といいました。ルールを破ると村八分などの制裁をうけることになりました。村八分という言葉は最近は使われなくなりましたが、簡単にいえば村の中でシカとされるようなものです。しかし、2つ例外があって「火事」の場合は協力して消火活動にあたります。そして、もう一つは「葬式」ですね。さんざんシカとをしていても、死んでしまったその時は、掟を破った破ってない関係なく葬式に参列するということでした。

村請制

次は、年貢の納め方なのですが、村請制といって村全体で年貢の納入を請けおいます。例えば村全体で120俵の年貢を村民からかき集めて納めるものでした。年貢を納めるのがイヤだからといって逃げ出されると残りの村民が負担を強いられることになるので、お互いがお互いを見張っていくようになります。

五人組

百姓を5人グループにして、年貢の納入や犯罪の防止に連帯責任を追わせるものを五人組といいました。さっきのように、土地を捨てて逃げちゃう人がいたらその人の年貢を他の人が補わなければならないわけですね、なので村としてもそういう状況を防ぐために五人組を構成し、一人が逃げ出したり犯罪をおかした場合は、残りの4人も同様の刑罰が待っているということになります。

農民の負担

今度は、農民の負担についてみていくことにしましょう。これは本百姓にかけられる税です。基本的に税は本百姓に課税されます、ですので水呑には土地をかしてやっているのでレンタル料として小作料をがっぽり取るわけですね。

本途物成

農民の負担といえば年貢のことなのですが、この年貢米のことを本途物成(ほんとものなり)といいます。本来の年貢としての米という意味で、田畑からの収穫にかけられる税です。四公六民あるいは五公五民を標準の税率としました。

小物成

山や海からの収穫や、副業にかかる税のことを小物成(こものなり)といいます。

 

国役

土木工事などの労働を行う大名が自分の藩に対してかける労役のことを国役といいます。たとえば大名が自分の藩で土木工事をするとします。河川の氾濫を防ぐために土手の改修工事をしたりする際に、農民を動員して国役を負担させるのでした。

 

伝馬役

街道付近の村々が、交通の便宜をはかるためにモノを運ぶ人であったり馬であったりを差し出すのを伝馬役といいました。

 

農民の統制

そして、幕府はこれらの農民を統制していきます。主に3つの法令が出されました。

田畑永代売買の禁令

土地の売買を禁止する法令です。農民はその土地で一生懸命耕して税を納めなさい、売り買いしてはいけません、質屋に質草として入れるのはもってのほかです!といったものですね。

 

分地制限令

親の土地を分割して相続することを禁止しました。要するに、土地が親から子へと分割されていくと、しまいには細分化された土地では暮らせなくなって結局生活に困って土地を売り渡してしまったり、小作人になったりすることになるので、相続をするのはダメですよ!といったものです。幕府は今の土地を一生懸命耕して安定して年貢を払ってくれることを求めているので、売り買いをしたり、農民が土地を手放すことを避けたかったわけですね。

 

田畑勝手作りの禁

田畑での商品作物(タバコ・菜種・木綿など)の自由な栽培を禁止しました。そのこころは何かというと、要するにお金が手に入るからといって米じゃなくってその土地で商品作物を作るのはダメだよってものです。

 

以上、3つの法令は全て共通していて、コメだけ安定して作らせて、税収を安定して確保させたいというものでした。なので農民が没落をしてその土地を放棄したりすることがないように、あるいはせっかく米が獲れる土地に他の作物を育てて農民がお金を得るといったことがないようにするために農民を統制していきました。今回は、武士の暮らし、農民のくらしについてみていきました。次回は町人の暮らしについてみていきたいと思います。

 

町人

ここまで士・農・工・商の「士」と「農」についてみてきましたので、ここからは「工」商」つまり町人についてお話をしていきたいと思います。町に住む人々、町人ですが、この時代の代表的な町といえば何ですか?そう!城下町ですね。

武士を城下町へ強制移住

武士は城下町への移住を強制されました。武士っていうのは、鎌倉時代でいえばたとえば地方の出身の地頭だったりするわけですよね。つまり、江戸のお城周辺にはもともと住んでいなかった。なので、武士の生活拠点は鎌倉時代でいえば館(たち)といわれる屋敷を構えていましたし、その館を拠点として一族や子分たちを率いて地域一帯のリーダー的存在でしたね。なので、お屋形さまが全国各地にたくさんいたわけですよね。これを率いたのが戦国大名だったのですが、戦国時代がおわって世の中が平和になると今度は藩を経営するようになると、強制的に城下町に住まわせた方が何かと都合がいいわけですよね。いってみれば地方武士は幕府の公務員として働かせたというわけです。なので、武士は城下町への移住を強制させられたのでした。

商人・職人への営業自由の特権

そして、商人や職人は営業の自由特権を得て城下町に集中しました。たとえば「よし!オマエはウチの街で営業をしてもよい。許可する!」とか「よし、じゃあ納めるべき税を軽減してやろう!」とか商人や職人には特権が与えられたんですね。それもそのはず、幕府が武士たちを城下町へ強制移住させるわけですので、城下町を盛り上げなければ武士も不満を抱いてしまいます。そこで城下町への物流を活発にさせるために商人や職人に営業自由の特権を与えたのでした。

武家地・寺社地・商人地

その結果、どうなったのかというとこの城下町にこの辺りは武士が多い地域、あの辺りはお寺の多い地域、その辺りは商人が多い地域など、それぞれの階層の人たちが固まって暮らすようになっていきました。今でも大阪の町を歩いてみると、天王寺はやたらとお寺が多いなとか、松屋町だと呉服屋さんがやたらと集中しているなとか、感じるはずです。このように江戸時代では身分ごとに地域に居住していたことが今でも伺えるんですね。

町人地の構造

町人地の中でも、「町」という小社会が多数存在していました。城下町があれば町人地があり、この町人地の中になんとなくのまとまりがみられるのですが、これを町といいます。そして、この町や町人地を構成するのがいわゆる町人なのですが、この町人というのは町内に土地と家をもつ者のことをいいます。だったら、土地や家をもたなければ町人とは言われないの?何て言うのか?というお話なのですが、土地を借り、家を自分で建てて住むことを地借(じがり)といいます。また。一軒家もしくは長屋の一部を借りて住む人のことを借家・店借(しゃくや・たながり)といいます。

町の運営

町には村と同じように代表がいるのですが、この代表のことを名主(なぬし・みょうしゅ)といったり、地域によったら庄屋、あるいは月行事(がつぎょうじ)といったりします。これらは家持町人から選ばれます。そして、町には町法に基づくルールによって運営していきます。ではこの町人の多くが営んでいる商業についてみていくことにしましょう。

商業

戦国時代もおわって日本全国で戦が少なくなってくると、平和が実現させるようになりました。すると、交通や流通が当然安全になるわけですよね。安全にモノを運べるようになってきました。そして、安全になってくると商業が活発になっていきます。

豪商の登場

安土桃山時代から江戸時代あたりになって登場してきた商人らのことを豪商(初期豪商ともいう)と呼ぶのですが、彼らは輸送手段、貯蔵施設を所有していました。たとえば、博多の豪商がいて、そして博多の豪商が京都や江戸にも蔵をもっていて、たくさんの人員や馬を所有しているので大量にモノを流通させることができました。そして、豪商らは東南アジア方面と朱印船貿易を行い、地域間の価格差を利用して莫大な富を得ることに成功したのです。たとえば、輸送ルートを豪商たちは独占しているわけですよね。たくさんものを一気に運べるのはこの豪商しかいない。すると、ある商品が九州ではありふれたものであって、1個100円とかのものがあったとして、江戸ではそれがないので希少価値が高く1個1000円とかで売られていたとすると、一気に運ぶだけで莫大な富をえることができたのです。あとは、大きな船を仕立てて東南アジア方面に朱印船貿易を行うことで莫大な富をえることができたのでした。

代表的な豪商

こうした豪商たちの代表例として、京都の角倉了以(すみのくらりょうい)茶屋四郎次郎(ちゃやしろじろう)あるいは堺の今井宗薫(いまいそうくん)らが初期豪商の代表的な人物です。

豪商の衰え

ところが、鎖国によって「朱印船を出しちゃタメ!海外渡航禁止!」だとかで、豪商は儲けの手段を失ってしまうわけですね。また、交通が整備されて陸運や海運の通行が一般人でも自由になっていくと、「な〜んだ!意外と簡単にモノを運べるんじゃん!ってか今まで豪商たちってどれだけぼったくっていたんだよ!」「それだったらオレらだって運べるよ!」となり、個人レベルでの商売が盛んになってくると、しだいに豪商の勢いも衰えていったのでした。

問屋の登場

そんな豪商の代わりに台頭したのが、問屋です。問屋とは、生産地の仲買から商品を預かり、都市の仲買に卸売をする人のことをさします。たとえば、生産者からニンテンドースイッチを買い取った仲買が問屋に対して「これを江戸で売ってきて下さい」とニンテンドースイッチを預けるわけですね。そして問屋が、江戸にニンテンドースイッチ運んで、今度は江戸の仲買にニンテンドースイッチを売るわけです。そして、仲買はニンテンドースイッチを小売といわれるエンドユーザー(消費者)に販売をします。問屋は仲買に「スイッチ、売ってきましたよ!」といって売上金を渡すのですが、その時に手数料をとって中間マージンで儲けていくのが問屋です。こうしていくつも中間点となる問屋を置いて、生産者が作った商品の代金に+アルファで手数料をとっていくというのは、今の日本の商売のシステムに直接影響を与えているのです。それから、都市部の仲買は、小売商人に売ることで利益を得ていました。小売商人は店舗で売ったり、天秤棒を担いで売り歩く振売などさまざまな形をとって行商することで商売を営んでいきました。

余談なんですが、最近の商取引 姿かたちを大きくかえつつあるようです。たとえば生産者が100円でつくったものを仲買に120円で売って、仲買は問屋に150円で売って、問屋が200円で小売に売るといったスタイルではなく、こうした中間マージンを搾取する中抜きをすっ飛ばして、生産者が直接エンドユーザーと取引をするスタイルが整備されてきています。たとえばヤフオクとかメルカリとか楽天フリマとかインターネットを介した直接取引なんかだそうですね。

身分構造

さて、ここまで士農工商のお話をしてきました。支配身分である武士に対して、被支配身分である百姓であったり職人、あるいは家持商人などが、いわゆる「士農工商」といいます。「士農工商」の他にも、かわた(「えた」)非人など特定の手工業者であったり、芸能あるいは刑吏などの集団がいました。たとえば日本人の発想として、日常/非日常とあったら、どちらかというと非日常を遠ざけようとする発想が日本人にはありますよね。たとえば事件が起こったらそれを引っ捕らえる人、たとえば悪いことをしたら処刑する人、あるいは特殊な能力をもつ芸能、あるいは特定の手工業、たとえば革製品を作る産業の場合、牛とか馬を屠殺して皮を剥ぐという残酷な作業をしなければならない、そういったどちらかというとこのような非日常性を少し遠ざけようとする発想があって、非日常性の仕事を身分の低い「えた」「非人」にさせたのでした。

こうした支配/被支配の構造っていうのはミクロな視点でみると家の中にも持ち込まれていきます。武士や有力な百姓の家では、戸主の権限が強くなっていくのでした。たとえば、長男の家柄の男親が強く、一方で次男坊など戸主以外の家族そして女性は軽んじられるといったような構造になっています。

 

今回は、前半で士農のお話をして、後半で工商のお話をしました。次回はいよいよ江戸時代の最重要政策である鎖国であったり、外交についてみていくことにしましょう。