日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

077 幕府の朝廷統制 /禁教と寺社

幕府のしくみについていろいろとお話をしています。今回は、幕府と朝廷の関係についてです。もちろん江戸幕府の中で一番えらいのは将軍様なんですが、ただこの幕府っていうのは、本来は天皇が治める国なんだけども、いまは乱世であっていろんな賊がいるし、世の中戦国時代であったから、天皇から任命をうけた将軍が一時的に治安を守る臨時政府(軍事政権)をつくっているといったものでしたね。だから、建前上は天皇が偉いっていうことになるので、将軍は天皇を立てながらも天皇の権力を制限するといった役回りに徹します。まぁ、実際に偉そうに振る舞うのは将軍なんですけどね。ということで、今回は幕府と朝廷との関係性についてみていくことにします。

朝廷への統制

さきほども申しましたように、立場的に上なのが将軍です。幕府が立てた天皇後水尾天皇という天皇です。後水尾天皇は、幕府の意向で天皇になっているわけですので、いってみれば幕府が天皇の地位を左右できるということになりますよね。

禁中並公家諸法度

そして、2代将軍秀忠のときには朝廷統制のための法令として禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにぶけしょはっと)といいます。ここにしっかり書いてあるわけですよ、「実際の権限は幕府が握って朝廷には渡しませんよ!」ってね。それで、「天皇の務めはというと学問や芸能である!」ってバーンって明記しているんです。天皇はそれだけをしておればよろしい、政治向きなことはこの幕府に任せてくれよって言っているようなものですね。

そして、都合のいい朝廷監視役として京都所司代を設置します。また、朝廷側の窓口として武家伝奏(ぶけでんそう)を設置させます。整理をすると、幕府サイドの朝廷に向けて開かれた窓口が京都所司代です。京都所司代は大名ですので、武士側の窓口ということになります。そして、朝廷の武家たちに対応する窓口が武家伝奏となるのです。朝廷側の窓口ってことですね。このように京都所司代武家伝奏の間でやりとりをするのですが、どちらかといえば京都所司代の監視の目の方が武家伝奏のそれよりもちょっと厳しかったようです。そりゃまぁ、京都所司代は武士、武家伝奏はお公家さんですしね。

朝廷統制の強化

さぁ、このように朝廷を統制していきましたよ。ルールも決めましたしね。そこで今度はどんどん統制の力を強化していきます。天皇や公家への生活、行動を制限していきます。とくに天皇があまり力を持ちすぎないように、天皇の領地これを禁裏御料(きんりごりょう)やお公家さんの領地は最小限にして、経済力を持たせないようにしました。やっぱり2代目、3代目あたりがヤマで、たとえば鎌倉時代の場合だと承久の乱が起きてしまいました。少し気を抜いて天皇に自由な行動を与えると、そういった反乱も起きかねないですし、あるいは室町幕府も成立してまだ天皇家の争いが後を引いて天皇が自由な行動をさせない、自由な経済力を持たせないってことが幕府政権を安定させるキーポイントと考えたのでした。そうすると、天皇としては「じゃあ私達にできることって何なんですか?」って思うわけですよね。幕府は天皇に対して「大納言であるだとか、従五位下であるだとか、そういった冠位を与えるのが帝のお仕事です。そして、年号を決めるのも帝の権限です。としたわけですね。しかし、天皇がこれらを行使する場合は、幕府の承諾を必要としたのでした。当然、冠位などは天皇の権力の源になりそうですよね。

 

そして、このような朝廷統制の強化の中で、徳川秀忠の娘である和子を、さきほど天皇にたてた後水尾天皇に嫁がせたのでした。こうすることによって、天皇を将軍家の婿殿にしたことになりますので、ますます天皇家のコントロールを強めていくわけです。

紫衣事件

さぁ、そしたらですね、やっぱり朝廷と将軍、なかなかうまくはいきません。ここで一つトラブルが発生します。それは、紫の衣とかいて紫衣(しえ)事件がおこります。さきほど、将軍によって立てられて天皇の位につき、2代将軍秀忠の娘・和子をお嫁さんにもらった後水尾天皇のお話をしましたが、この後水尾天皇が幕府へ届け出ずにお坊さんに紫衣という文字通り紫色をした袈裟の着用を許可したのでした。紫の衣っていうのは何かって言うと、最高の位もつ僧しか着用できないものでした。これが幕府に届け出していないってことで、幕府はこれを問題視したのでした。そうでなくとも、幕府は朝廷をコントロールするために何かことを起こそうものなら「届け出は?」「ちゃんと届けてないじゃないですか!」といちいち朝廷に揺さぶりをかけたのでした。少しずつ厳しいことも言ってコントロール下におきたいわけなんですが、ちょうどそんなタイミングで後水尾天皇が無断で紫衣を僧に授けたことから幕府はこれを問題としたのでした。

すると今度は、この紫衣をもらった方ももらったほうで、「えぇ!なんで〜ダメなんですか?だって天皇からもらった位ですよ?重視すべきじゃないんですか?」ということを大徳寺の沢庵(たくあん)という僧が猛抗議をしたので、幕府はこれを処罰しました。処罰といっても死罪ではなく、監禁状態におかれるわけです。すると、監禁状態におかれて他にすることのなくなった沢庵さんはアレを作るわけですね。アレって何かというと、あの漬物のたくあんですよ。漬物のたくあんのルーツは沢庵さんです。

で、幕府は処罰をして、この紫衣事件によって結局天皇の許可よりも抗議した僧侶を幕府は処罰したわけですので、幕府の取り決めである法度が優先と示しました。「天皇の許可が得られればそれでいいじゃないですか!」という考え方に対して「そうじゃないよ!わかってるだろ?天皇の許可よりも幕府の取り決めが優先なのだよ!」とキッパリした態度を示したのでした。

そしたら、この後水尾天皇は「もうオレはやってられん。幕府の操り人形で、嫁さんの一つも自分で決められない、もういやだー!」ということで、突然天皇の位をおりて抗議します。「やってられんわ!」ってね。じゃあ、天皇がいなくなってしまうわけですから、新しい天皇を立てなければなりません。新しい天皇明正(めいしょう)天皇です。この明正天皇というのは、後水尾天皇の子なのですが、ということはお母さん側のおじいちゃんが徳川秀忠ということになりますね。だから、結果的にこの後水尾天皇が降りたことによって幕府の朝廷統制がより強まるという結果になるわけです。まぁ、この後水尾天皇は徳川家の人間じゃないのですが、だからといってこんなにがんじがらめなことをされると不満に思うわけです。しかし、明正天皇はというと、もともとおじいちゃんが秀忠で徳川家なので、文句はないわけです。このことによって幕府の調停統制がより強まった、こういう事件が紫衣事件です。

以上、幕府が朝廷をいかに巧妙にコントロールしていったかというお話でした。

禁教と寺社

幕府の朝廷統制のお話が終わった所で、後半戦は幕府の宗教統制についてみていくことにしたいと思います。ここのところしばらく、江戸幕府のしくみについて勉強をしているのですが、なぜ歴史の授業なのにこういう政治システムを学んでいるのでしょうか。それは江戸幕府というシステムが今の我々にも結構影響を与えているからなんですね。例えば、お上の言うことに従ってその集団に所属しているうちはわりと居心地がいいのですが、そこから外れるとなかなか生きづらい社会なのですね。ある意味ムラ社会というような雰囲気をこの江戸幕府は作ってしまったのでした。私個人としては、それはあまり良いとは思わないのですが、ある意味お上のいうことに従順である、あるいは世間体を気にするといった日本人の精神性がこの時代に醸造されたということです。

宗教統制①

では、幕府の宗教政策みていきましょう。まず禁教と寺社ということで、さきにお寺や神社の統制についてです。もちろんこれを担当するお奉行様はだれかというと寺社奉行ですね。考えてみると寺社奉行というのは、幕府の中でも宗教政策がわりと肝なので、他の三奉行である江戸町奉行勘定奉行と比べれば格は上なんですよね。それほど寺社奉行が重要であるということです。

寺院法度

では、そんな宗教を統制していくためのいくつか法令について紹介したいと思います。主な宗派や個別で出されるのが寺院法度です。たとえば、浄土真宗の宗派であれば、本願寺とそれ一派のお寺である本願寺派に対して出される、あるいは日蓮宗に対してだされる、あるいは天台宗に対して出される、といったようにそれぞれの宗派ごとに出されたのでした。つまり寺院法度は、寺院や僧侶統制のための法令ということですね。

本末制度

浄土真宗であれば、本願寺とその一派のお寺という表現をしましたが、その宗派には本山とされるお寺(本山)がまずあって、それが本願寺であったりします。そして、本山に従うお寺のことを末寺といいます。だから、◯◯宗をコントロールしたければ、そこの本山に対して寺院法度を出せば、その法令が末寺にまで行き渡るという仕組みですね。寺社奉行が統轄をして、本山がありそして本山に従う末寺っていうのがいくつかあるというわけですね。これが本末制度といわれるものです。

諸宗寺院法度

このように個別で出されるのが寺院法度でしたが、今度はそれを仏教の世界全体で統制するための法令が出されます。これを諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)といいます。各宗共通の法度で、仏教界全体を統制するための法律です。

 

このような法令で寺社を統制してくわけですが、お寺さんや仏教のお話については奈良時代南都六宗というお話をしましたし、平安初期は天台宗真言宗といわれる密教のお話を、鎌倉時代であれば臨済宗曹洞宗禅宗系のお話を、あるいは念仏系のお話をいろいろしてきましたが、ここでは、◯◯宗、△△宗で一番最後の位置づけとなる黄檗宗(おうばくしゅう)の伝来について紹介をしたいと思います。この黄檗宗というのは禅宗の一派であり、17世紀半ばに隠元隆琦(いんげんりゅうき)という中国・明のお坊さんによって伝えました。

諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)

今度は、寺社の社、神社の方をコントロールする法令もみていくことにしましょう。それはいろいろな神社の神様に仕える人のことを禰宜(ねぎ)というのですが、神主であるとか禰宜であるとかいった神職あるいは神社そのものへの統制を行いました。そして、この神社の面倒を見させるのが誰かと言うと、公家の吉田家に面倒を見させました。まぁ、難しくいえば「吉田家を本所とする」といいます。

宗教統制②

このようにお寺と同じように神社の方もコントロールをしました。さぁ、お寺・神社ときて今度は宗教を禁止する、禁止するといったら江戸時代でいえばキリシタンを弾圧していくってことになりますので、ここで宗教統制について紹介をしておきましょう。まずなくてはならないのが、キリスト教の禁止です。

禁教令

当時、積極的に布教を行っていたのがスペインやポルトガルの人々でしたが、彼らは宣教師を送り込むだけでなく、そこに拠点を築きそこを植民地にしようとする領土的野心があるわけですね。宣教と領土的野心が一緒になってやってくる、これがポルトガルやスペインのやり方だったのですが、幕府はそこに警戒をし禁止の命令を出すわけです。そして1612年に直轄領に禁教令が出されて、その翌年1613年には全国に出され激しい迫害や改宗を強制させたり、国外追放をしたりしました。たとえば、キリシタン大名の一人である高山右近をはじめ300人をマカオやマニラへ追放します。この人達はある意味追放されてよかったと思います。マカオやマニラには多くのキリシタンがいたわけですからね。かわいそうなのはこの後です。

元和の大殉教

長崎で事件が起こります。どんな事件かと言うとキリシタンであることをやめなければ処刑されるといった事件です。死を覚悟でキリスト教を捨てなかった宣教師や信徒らが迫害をうけます。このような迫害に加えて、非常に過酷な年貢を強いられたことによって、島原の乱が起こります。

島原の乱

島原領主である松倉氏と天草領主の寺沢氏による圧政で、過酷な年貢や禁教令が出されます。まぁ、伝えられるところによれば、非常に過酷な年貢を治めなければたとえば蓑踊りといって藁でできた雨合羽を着てそこに火をつけて見せしめにする処罰などがありました。そういった厳しい政治に対して心の寄りどころしていたキリスト教でさえも禁止されてしまった民衆らが「これはもうやってられるか!」と、そこで伝説的な少年が現れるわけです。これが天草四郎益田時貞です。実在の人物かどうかわ分かりませんが、こういう軌跡を起こしたといわれる少年があらわれ、キリスト教の高い徳を心得ているということから、ヒーローになるわけです。そして、この天草四郎を結集軸とした一揆が発生するわけです。ですので、これはガツンと一発やっつけておかないと示しがつかないので、3万人あまりの反乱が全滅であったというわけですので、幕府もかなり本気モードで鎮圧したということです。

宗教統制③

さて、このような禁教令から島原の乱をうけて、もうキリシタンがでてこないようにこれから先は監視をする宗教統制を行っていくわけですが、これを絵踏といいます。

絵踏み

絵踏みということを踏み絵というものを使って行います。日本語分かりました?踏み絵というのは、キリストの像やらマリアの像やらを銅などの金属で象ったものを踏み絵というのですが、これを踏ませて「マリア様の像だけは足でふむことは出来ません!」とキリシタンを見分けるために行われたのが絵踏みです。九州北部で多く実施されました。

寺請制度

誰もがどこかの寺院の「檀家」となる制度のことを寺請制度といいます。たとえば、Aさんは法隆寺の檀家です、Bさんは四天王寺の檀家、Cさんは東大寺の檀家、Dさんはこの薬師寺の檀家、といったように国民全員をどこかの寺に所属させるというしくみです。そして、この所属先を宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)というリストに載っけるわけですね。すると、幕府は、寺社奉行を通して本山をコントロールし、この本山の配下にある末寺もコントロールでき、さらにその末寺の檀家さんをもコントロールできる、といったように国民全体をコントロールすることができたのでした。ちなみに神社の神職であっても、お寺の檀家として登録をしなければなりません。すると宗門改帳というリストがいわゆる戸籍という形で国民全員を把握することが可能になるわけですね。

宗門改め

そして、この戸籍を作る際に、一人ひとりの宗教をチェックして、キリシタンではないな!ということができたのでした。で、代表的なのがこの宗門改めで、キリスト教だけでなく、将軍であろうが、幕府であろうが幕府権力よりも信仰を優越するという信仰をもつ日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派も取り締まりました。

 

今回は、幕府による統制についてのお話でした。