日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

117 新政府への抵抗・自由民権運動の始まり

前回,こういうお話をしました。政府のエース達が岩倉使節団としてヨーロッパにいって制度や文物の見学をしていた間に,留守政府を預かっていたリーダーである西郷隆盛板垣退助らが外交交渉の中で,朝鮮からシカトされたために朝鮮を攻めましょうや!とする征韓論が出ました。朝鮮半島を今にでも攻め取るべきだーと血気盛んになっているところに,岩倉使節団が帰国をしましたね。今にでも戦いましょうや!とか言い出すもんだから,「ちょ,ちょ,ちょ,ちょっと待ちなさいよ。そんなに焦らず,今まだ日本は実力を蓄えるべきであって,外国と戦争をするべきではない!」と征韓論に真っ向から反論しました。留守政府は今にも朝鮮半島を責めんばかりだったのですが,「オレたち留守政府は留守政府なりに一生懸命考えに考えた上で出した結論なんだ!それなのになぜわかってくれないんだ!」と最後は「もうやってられん!」ということで政府を降りた1873年のこの出来事のことを明治六年の政変といいます。今すぐにでも朝鮮半島を討滅してしまえとする征韓派が下野したのでありました。これが今回のスタートの背景となります。

 

さて,そうすると,今まで征韓論を唱えていた征韓派の人々は政府を降りて,どのような動きみせたのでしょうか。それには西郷隆盛らがとった①西郷コースと,板垣退助らがとった②板垣コースの2つがあります。

 

①西郷コース

不満を持つ士族が,結局はチカラで訴えていこうということで,反乱を起こしてしまうコースと捉えてもらえればOKです。実力でオレたちの力を認めさせようぜ!とするコースです。まずは江藤新平らを中心とした佐賀の乱が1874年に起こりました。そんな中,5〜14年分の給料は出すが,あとは出さない,勝手にしてくれ!とする秩禄処分が1876年に,そして武士のシンボルを捨てなさいとする廃刀令が出されたことが根底にあります。そこから一気に西日本で反乱が起こっていきます。たとえば熊本では,敬神党の乱がおきます。敬神党の乱は,太田黒伴雄が中心となりました。続いて,秋月の乱です。秋月は,紅葉がキレイな福岡の小京都といわれるところなのですが,この地で宮崎車之助が反乱を起こしました。そして,山口では萩の乱です。これは,前原一誠という人が中心となって起こした乱です。そして,西南戦争ですね。薩摩の士族たちを背景にして起こった戦争なわけですから規模も大きかったのでした。

このように西郷コースは,不満をもつ士族らが結びついて,実力行使で政府を転覆させてやれとするコースだったのでした。では,もう一つのコースをみていくことにしましょう。

 

②板垣コース

明治六年の政変では,残念だったけどオレたちの意見は認められなかったね。だったら,オレたちの意見を聞いてくれる場所を作ったらいいじゃないか!ということで,議会を作り,意見が言える民主主義をめざしたのでした。このような道を辿ろうとしたのが板垣コースです。

 

この板垣コースの運動のことを自由民権運動といいます。この運動の始まりはというと,まず征韓論に破れて政府を降りた板垣退助,あるいは板垣の土佐時代の仲間である後藤象二郎が,自由民権運動のためのグループを作ります。これが,初の民権運動団体でもある愛国公党です。この愛国公党が,太政官の左院という組織に民撰議院設立建白書を提出します。だから,人々が選んだ議会を作ってくださいとお願いをしたのでした。また,次に板垣退助が土佐で立志社を設立します。社長は片岡健吉という人です。このように,板垣退助は,各地をまわってそこここで民権運動をプロデュースしていったのでした。いってみれば秋元康が東京でAKB,名古屋でSKE,大坂でNMBのような団体をいくつも立ち上げるように,アイドルの仕掛け人ならぬ,自由民権運動仕掛人となって東京であるいは土佐でいろんな団体を立ち上げていくのでした。では,3つ目の団体を立ち上げますよ。仕掛け人・板垣退助が今度は大阪③愛国社という団体を立ち上げます。東京は,大久保ひきいる政府の監視の目が厳しいですが,東京から離れた大阪であれば,監視の目は行き届きにくいですから,そこを狙ってこのように矢継ぎ早に設立した自由民権団体を立ち上げて「議会を作れー!オレたちの意見を聞き入れろー!」と騒ぎ出します。さすがの冷血大久保も「この勢いは政府としてもちょっとこれは無視できないなぁ」となってくるわけです。この無視できない局面で,一つは「わかった!わかった!」とする妥協,もう1つは「これ以上やるとどうなるかわかってるな!」とする弾圧といった方法をとることになっていきます。

 

妥協編

さて大久保は動きます。敵地である大阪へ,木戸孝允とともに乗り込んでいき「わかった!わかった!板垣くん,君の話を聞いてみようじゃないか」として,大阪会議が開かれるのです。ここで,政府攻撃を図る民権派と政府との間で妥協が図られます。

 

漸次立憲政体樹立の詔

ちょっと長い名称なのですが,漸次立憲政体樹立の詔です。漸次っていうのは「ゆっくり」「そのうち」「だんだん」という意味で,「わかった,わかった!板垣くん。お前のいいたいことはわかった。すぐにではないけども,そのうちやるから,時間をかけてやるから。アメリカにしろ,イギリスにしろ,フランスにしろ,諸外国はみんな議会をもち憲法を作っているわけだから,日本も法と議会で統治をしないわけにはいかないよね。ただ,すぐにはちょっとできないから,時間かけてそこはやるから〜」ということで,時間をかけて憲法と議会をつくりましょうとしました。

 

元老院

また。法律の整備はしないとねってことで,法律を作るための相談をする機関,すなわち立法のための諮問機関を作りましょうということで元老院が設置されました。

 

大審院

さらに,今の最高裁判所にあたる大審院を設置しましょうとしました。

 

 

また,国レベルではなく地方レベルでも妥協がはかられました。

地方官会議・地方三新法(三新法)

府知事・県令を集めて地方の意見を取り入れようとする地方官会議も設置されましたし,府県会という地方議会の設置もみとめられた。以上,このようなことが大阪会議で話し合われて民権団体に対して妥協が図られました。

 

 

このように大久保と木戸は「地方官会議や地方三新法で,ある程度の地方での民意は組みますよ。そして,大阪会議で話し合われたように全体としては,議会を作る方向で動いていきますよ。」というような妥協をしたのでした。要するに,全体として議会をつくり国民の意見を吸い上げようとするような国をつくろうとは思います。そして,地方レベルでも民意を汲み取れるような仕組みは作ります。だからといって,政府を非難したり攻撃したりするのはダメですよ!といった弾圧も併せて行ったのでした。つまり言論弾圧ですね。

 

弾圧編

政府の言論弾圧,これを讒謗律(ざんぼうりつ)といいます。上からク・ロ・ヒヒ・免と書いて下さい。讒謗律の讒謗というのは「悪口を言う」「そしる」といった意味です。つまり言論の弾圧ですね。

 

そして,もう一つが新聞紙条例です。これは,文章であまりにもあからさまに政府批判をするのは禁じますよ!としたものでした。悪口を言ったら,あるいは文書で政府をそしったりしたら,攻撃してとっ捕まえるぞ!としたのでした。

 

以上,今回は明治十四年の政変で政府を下野した人たちが,政府に対して反乱を起こした西郷コースと,もう一つはオレたちの意見が国に聞き入れられるようなしくみづくりをしていった板垣コースつまり自由民権運動コースに分かれて,政府はこの自由民権運動コースに妥協をしたり弾圧をしたりするというお話をしました。今回は以上です。