日本史オンライン講義録

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118 自由民権運動の拡大

前回は,明治六年の政変をきっかけとして西郷コース(実力行使型)と板垣コース(民権運動型)へ分かれていきましたね。今回も,板垣退助が活発に活動をしていきますよ。板垣退助が各地で団体を立ち上げて,自由民権運動を盛り上げ,そして人々も板垣退助の呼びかけに呼応するかたちで「そうだそうだ!政府はオレたちの意見も聞け!」ということでどんどんと民権運動が拡大していくことになります。

 

民権運動の拡大

愛国社ができて,大阪会議が開かれて,妥協案が提示されたために民権運動は一旦小康状態になります。愛国社も解散した状態だったのですが,しばらくして豪農層(地主層)が民権運動に参加しはじめます。その理由なのですが,1873年に地租改正が行われて,地券所有者つまり地主らが「地租が高い!高すぎる!」といった不満があったわかですね。それともう一つは,「オレたち地租を納めているってことなんだから,オレたちにも政治に意見を言わせろよ!」という論理で民権運動が高まっていきます。

立志社建白の提出

そこで立ち上がったのが,片岡健吉らが土佐に作った団体・立志社です。1877年には立志社が提案書を提出したのでした(立志社建白)。「西南戦争では西郷ドンが武力で戦っている!オレたちは言論をもって政府に攻撃だ!」「政府は国会をつくれ!」「地租が高すぎるから,地租を下げろ!」「不平等条約を改正してくれ!」と半ば政府を攻撃するような内容なのですが,世の中の人達はみんな心の中で思っていたことで,国会開設地租軽減条約改正の三大綱領を要求したのでした。そこで,政府は妥協案を提示します。1878年には三新法を制定します。三新法は,郡区町村編制法地方税規則府県会規則です。テストでは3つの正しい組み合わせを選ばせる問題がよく出されます。ところが,この妥協案が政府にとっては逆風となりました。というのも,地方が意見をいえる機会を作ってしまったために,より一層民権運動に拍車がかかった状態になってしまったのですね。

 

国会期成同盟

そこで,板垣が大坂で立ち上げた愛国社ですが,この愛国社が再興して,国会期成同盟1880年を設立しました。片岡健吉河野広中らが中心になって,「国会をなんとかしてつくってくれ!オレたちの意見を言わせる場を作って欲しい」ということで国会の成立を期待しましょうということで,愛国社をもとにして発展拡大した組織だと思って下さい。やはり求めるものは「国会を作ってください!」ということですので,国会設立請願書太政官に提出しました。もちろん政府はこれを拒否します。これ以上民権運動が激化しては困るということで,同年に集会条例で弾圧をしていきます。さきほどは讒謗率や新聞紙条例でジャーナリズムに対して弾圧をしましたが,今回は演説会に規制を加えようとしたのでした。愛国社や立志社国会期成同盟のことを政社というのですが,集会条例ではこの政社の活動を限定しました。たとえば,政社の演説会とかで「政府は〜」といった時点で,集会の取締りをしている警察官のような存在の役人が登場して「はいはいはい!中止だ,中止!」というふうに活動を停止させていったのでした。このように政府は,自由民権運動の高まりに対して封じ込めを図っていったのでした。とはいうものの,板垣が種を蒔いた立志社や愛国社,そこから発展していった国会期成同盟によって民権運動はさらに拡大していくのでした。

ポイント:どのタイミングで弾圧が発動したのか?

漸次立憲政体樹立の詔のとき:新聞紙条例・讒謗律

国会期成同盟のとき:集会条例

天皇から出た文書として漸次立憲政体樹立の詔をだして「将来,必ずどこかのタイミングで議会を作り憲法を作るから」って言っているわけですので,そのいつかのために憲法を作ろうじゃないかということで,憲法として取り入れられるかどうかは別として,憲法の草案を作ることが少し流行りになっていったのでした。「オレだったらこういう憲法にするなぁ,私だったらこんな憲法にしてみせるわ」といった感じで草案され,主な草案としては交詢社(こうじゅんしゃ)の私擬憲法や,植木枝盛東洋大日本国国憲按,そして土佐の立志社によって日本国憲法見込案が作られました。このようなそれぞれが作った理想の憲法案のことをまとめて「私擬憲法」といいます。

 

明治十四年の政変

このように集会条例が制定され,民権運動は一時期封じ込められるわけです。そんな中で政府では内部対立が起こります。1878年紀尾井坂の変大久保利通が,西郷隆盛がなくなり,行き場所を失った士族の連中に暗殺をされるのですが,その後を巡って内紛が起こります。大久保の後継者として大隈重信伊藤博文が対立し始めます。原因はというと,国会期成同盟が出来たことで「国会はもう開かざるを得ないだろう」という大隈重信の意見(即時国会開設派)と,「しっかり体制を整備した上で開くべきだろう」という伊藤博文の意見(漸新的国会開設)がぶつかります。この争いをきっかけに明治十四年にはこんな事件が起こってしまいます。

 

開拓使官有物払下げ事件

明治十四年にどういうことがおきたかというと,開拓使官有物払下げ事件が置きました。開拓使っていうのは,農業ができるように,少しずつ耕作地を広げながら,対ロシアとの国防をまもりながら北海道を治めていくという役所でしたよね。ちなみに初代開拓使長官は黒田清隆でした。税金を投入して北海道に建てた工場施設群を,その開拓使長官・黒田清隆が,政商・五代友厚に格安で譲るということが明るみになりました。そうすると,1億円で建てた工場を1万円で譲るとなると「なんで特定の人物にそんな安値で譲るんだ!」とそりゃなりますよね。なぜ譲ったのかというと,実はこの2人はともに薩摩出身で,かんたんにいうと薩摩つながりで仕組んだ汚職だったわけですね。そんな汚職に対して自由民権運動家たちはこのことを大きく取り上げて政府攻撃をつよめたのでした。「薩摩は,薩摩つながりということで汚い手を使って裏で取引をしているんだろ!こんなことだから,議会がないとダメなんだ!オレたちの意見を国に届けないとだめなんだ!」ということで一斉に攻撃を強めました。

 

明治十四年の政変

そして,いわゆる明治十四年の政変が起きます。この黒田清隆五代友厚は実は誰にもばれないように取引を進めていました。黒田は「北海道に税金で建てた工場があるんだけど,これをあなたに譲るよ。このことは誰にも言っちゃダメだよ」といい,五代も「そうなの?ありがとう。絶対に誰にも言わないよ」といった感じで進めるつもりだったのですが,民権運動家らはこのことを知って立ち上がったということは,要するにこの事実を漏らした内通者がいるってことですよね。「誰だ!?」ということになり探していたところ,「どうやらこのことを漏らしたのは大隈重信なのではないか?アイツがもらしたからオレたちは今こうして攻撃を受けてるんじゃないのか?こうなりゃ,何か理由をつけて大隈を政府から追放しよう」ということで,大隈重信は政府から追放されてしまうのでした。この一連のことを明治十四年の政変といいます。

 

長州の伊藤博文が政権を担当し,肥前大隈重信が政界から去ったという事実を知った民衆たちは,「藩閥政府やないかい!!」と激怒します。民衆の政府批判が拡大します。そりゃそうですよね,開拓使官有物払下げ事件で明るみになった自分たちの汚職の責任を棚上げにして大隈重信を辞めさせたんだから,「さらにひどい!」ってなりますよね。そこで,政府としても「わ,わかった,わかった。官有物の払い下げは中止にするから。」とします。さらに批判にさらされている政府から目をそらせる目的で「中止にするし,国会開設も作ろうではないか」ということで譲歩します。これによって国会開設の勅諭が出され,10年後の国会開設を約束しました。政府は今まで,新聞紙条例や讒謗律,集会条例などで民衆の運動を弾圧してきたわけですね。ただ,この汚職事件が明るみになったために,ついに国会開設を約束させられた形となりました。

 

政党の結成

さて,10年後必ず国会ができることが決まったわけですから,民権派からすると悲願であった政党をつくってもよいということになります。今まで①愛国公党・②立志社・③愛国社・④国会期成同盟が各地で作られましたが,この4つはいわばインディーズバンドみたいなものなんですよ。まだメジャーデビューしていない状態です。レコード・レーベル会社と正式契約を結んでいない状態ですね。自分たちでスタジオ借りて録音して手売りをするといったように,公に認められた団体ではないわけですよね。しかし,10年後の国会開設を天皇直々にお認めになられたということで,今回からはオフィシャル的に認められた団体ということでメジャーデビューを果たすことになります。

自由党

そして,ついに板垣退助が立ち上げることになった政党団体が自由党です。党首はもちろん,板垣退助です。国会期成同盟のメンバーが中心となって,フランス流の急進的自由主義で,主権は国民にある(主権在民),これが自由党の主張です。

 

立憲改進党

明治十四年の政変で政府を追放された大隈重信が旗揚げした政党が立憲改進党です。イギリス流の穏やかな立憲政をめざしました。もともと,イギリスっていう国がそもそも王様がいて,国民と強調しながら国を治めていくっていう君民同治ですからね。

 

立憲帝政党

以上2つはどちらかというと,政府を批判する側なのですが,政府の側にいる政党で立憲帝政党も立ち上がりました。党首は,福地源一郎という人物です。これは自由党立憲改進党とはことなり,政府に同調する保守系政党でして,主権は天皇にある主権在君の立場を主張しました。ドイツ流の君主が強い欽定憲法主義をとりました。憲法とは人々が考えてきめたものではなく,君主が決めてそれを国民に与えるスタイルのものであるとしたのでした。だから,君主制が強いといえるでしょう。

 

今回は,民権運動が拡大し,政府はいったん弾圧でおさえつけるのですが,明治十四年の政変で政府が汚職をやらかしてしまったために,人々が政府を攻撃するようになりました。政府はこれに折れたかたちで,10年後に必ず国会を作るからということを約束し,政党を作ることも認め,愛国公党からはじまる板垣系の民権団体がついに政党としてメジャーデビューを果たすという大まかな流れをおさえました。今回は以上です。