日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

134 大正政変(西園寺②・桂③・山本①・大隈②)

それでは時代が進んで大正時代に参りましょう。大正時代というのは,1912年7月から です。大正時代といえば「大正デモクラシー」っていう言葉を聞いたことがありますね。このデモクラシーというのは民主主義ってそのまま訳すんですけど,日本の場合は主権者は天皇ですので,まぁ民主主義といっても国民主権の国になったわけではなくて,国民の意見がだいぶ政治に反映されるようになったね!というような意味だと思ってください。例えばこの大正政変とか米騒動のときの寺内正毅首相のように,国民のデモや国民の声上げた声によって時の内閣が倒されるというような事件がおきます。そういった国民の意見やデモによって内閣を引きずり下ろすように民意が繁栄された時代のことを大正デモクラシーの時代といいます。

 

この大正デモクラシーを代表する美濃部達吉という人の「憲法講和」の中で2つの説が述べられています。一つは天皇機関説ですね。天皇も国の仕組みの一つであるよ!主権者は天皇でだけども,その主権者をやっているという仕組みの一つであるということです。国という組織があって,天皇は国という組織の一つとしての役割ですよってことですね。天皇は今におわします神様のような存在なので国を仕組みの一つとか言うのは失礼であろう!ということで後に問題になっていきます。ただ,この美濃部達吉さんのいう機関説というのは,たとえば日本という国が税金を集めますよね?それは天皇のポケットマネーではなく日本という国を運営するためのお金であるわけだし,日本という国が外国と条約を結ぶ場合は,天皇の名前で条約を結ぶかもしれないですが,それはあくまでも「日本という国が外国と条約を結んでいるんだ!天皇が他の国と直接条約を結ぶわけではないよね?だから天皇も国の仕組みの一つであるよ!」っていうことを言ったに過ぎないんですよ。まぁそれが後に,「天皇は神様なので仕組みなんかではない!」と問題視されたのでした。

 

後もう一つは政党内閣論ですね。選挙で選ばれた人が内閣を構成すべきとする考えです。内閣というのは,行政をやるのですが,その行政は選挙で選ばれた人に任せるべきだということを主張するわけです。今まではこの内閣に入る人っていうのは,薩摩や長州や陸軍や海軍ばっかりだったわけですね。そこを,選挙で選ばれた人が内閣入りをすることで国民の意見を政治に反映されるようにするべきである,いうようなような論を展開していくわけです。このような意見が国民に受け入れられて,内閣制度や選挙制度の仕組みも落ち着いて,国民の意見が政治に反映されやすい時代だったのが,この大正デモクラシーということです。

 

第2次西園寺公望内閣

では,大正時代の内閣政治の流れについてお話をしましょう。大正時代最初の内閣は,第2次西園寺公望内閣です。西園寺公望内閣の前半は明治時代,後半は明治天皇が亡くなってしまって大正時代に入ります。

そんな西園寺公望内閣には結構頭の痛い問題が浮上します。それが陸軍2個師団増長問題です。陸軍大臣上原勇作という人が,こういう提案するわけですね。「韓国併合してまだ間もない,義兵闘争も激しい,そして中国では辛亥革命も起こった。その混乱の日火の粉が朝鮮に降りかかるとも限らない。なので,陸軍2個師団の増員を提案する」と。ここでいう師団というのは〇〇小隊とか〇〇大隊いった一つの塊グループの大きさのことを指すんですけど,〇〇師団というのはかなり大きいグループで,2〜5万人程度増員しましょうと提案したのでした。とはいえ,日本も日露戦争の後ですので,国にお金があるわけではありません。西園寺内閣としても「お金がないんだ!財政が厳しいわけだから そんな2〜5万人の兵隊を食わせられない。だめだ!」と国会では認められませんでした。そうすると,この上原さんは「朝鮮を失うことになっても私は責任とれません。2個師団増設が実現できないのであれば私やめます!」といって上原勇作は陸軍大臣を勝手に辞任してしまいます。陸軍はとしては上原勇作さんが辞めた後,後継の大臣を出しません。つまりごねているわけなんですね。

 

山県有朋の作ったルールに軍部大臣現役武官制というものがありました。これは,軍部の大臣というのは現役の陸軍か海軍の将校から出すということに決めているわけですねそうすると,陸軍大臣が出なかったら,内閣は組めなくなっちゃうわけですね。それで大混乱を来たすわけです。西園寺内閣としては「陸軍大臣を出してくださいよ!」って頭を下げたところで,陸軍は「2個師団増徴してくれないんだから,ウチからはださないよ!」と軍部大臣現役武官制を悪用して突っぱねるんです。こんな混乱状態にさらされた西園寺内閣はついに総辞職に追い込まれてしまいます。

 

ポイント

 天皇がトップに君臨し,天皇の下には内閣があり,そして国会という立法機関がありました。当時,内閣は第2次西園寺公望内閣で,内閣というのは外務大臣・文部大臣・大蔵大臣・・・・・・海軍大臣陸軍大臣をひっくるめたものをいいます。さて,ここでポイントなのは,内閣と同じレベルに軍部(陸軍・海軍)というものがあります。軍部は,内閣と同じように天皇から直結しています。現在は,内閣の中に防衛省があり,防衛省の中に自衛隊が組織されており,行政府の中に自衛隊があるイメージですが,当時の明治憲法下では「行政府・立法府と軍部は独立させなければならない」といった統帥権の独立が謳われていました。ですので,内閣のメンバーである海軍大臣陸軍大臣に関しては軍部大臣現役武官制が効いているので,陸軍・海軍から選ばれます。

 

こまったのは大正天皇です。後継の内閣総理大臣を誰に任命しようにも思い浮かびません。そこで当時の元老である山県有朋がこのように助言します。「やはり桂園時代ということでもありますので,これまで桂→西園寺→桂→西園寺と流れてきましたし,ここは再び桂でいかがでしょうか?」ということで,長州・陸軍閥桂太郎がみたび内閣を組閣することになります。第3次桂太郎内閣の誕生です。

 

第3次桂太郎内閣

さて,この後の内閣が第三次桂太郎内閣です。桂太郎は,出身はなんと言っても陸軍です。しかも,就任前は内大臣をやっていました。つまり,宮中の人だったんです。あの宮中・府中の別を乱すものとして,藩閥勢力や軍部への不満も爆発し,そしておこったのが第一次護憲運動という政治的一大ムーブメントですね。

 

つまり,こういうことです。陸軍が2個師団増員を求める,内閣は財政不足ということでこれを認めない,そうすると陸軍大臣がやめた,陸軍は後任の陸部大臣をださず軍部大臣現役武官制を悪用する,手のつけられない西園寺内閣は総辞職せざるを得ない。これって,陸軍がゴネておいて,陸軍出身の桂太郎が総理大臣になるって言うのは,いくらなんでもこんな馬鹿な話ありませんよね?陸軍,ごね得じゃん!って感じですよね。だって軍部大臣現役武官制っていうのがある限り,陸軍の気に入らない総理大臣に対して「うちからは軍部大臣出さないよ!」ってゴネさえすれば,そのうち自分たちの味方をする人が首相になってくれるってことでしょ?「ゴネ得じゃん!」ってなりますよね。国民はこのやり方には納得がいきません。第一次護憲運動がブワーッと巻き上がるわけです。

 

さて,そもそも議会では過半数以上の賛成がなければ成立しないんですよね。そこで,立憲国民党犬養毅と,立憲政友会尾崎行雄という人が中心になってスローガン「閥族打破,憲政擁護」を掲げて,桂内閣を厳しく批判していくわけですね。桂も「そうか…議会があったかぁ。」って感じで,桂は,政友会と国民党以外の残りカスの議員をあつめて「君たち!僕の味方となる政党になってくれ!頼むー!」と言って立憲同志会を組織して対抗しようとするんですけれど ,国会の中では犬養尾崎に厳しく攻撃をされます。国会議事堂を一歩でると,何重にも民衆に取り囲まれて「桂をだせ!桂はやめろ!」と厳しい批判にさらされることになります。結局,この圧力に屈して桂は就任してたった53日で辞任に追い込まれることになります。

 

覚え方

ゆかいな  オッサンと  犬飼う  国民

立憲政友会   尾崎行雄   犬養毅  立憲国民党

 

カツラ 同士かい

 桂太郎 立憲同志会

 

 

このように民衆の運動が内閣をつぶしたというのは,内閣制度が始まって初の出来事であったので,そこから大正時代が始まったので,大正っていう時代は人々の運動によって総理大臣を辞めさせられるほど人々の気持ちが国を動かすこれが大正デモクラシーだ!ってことを人々に強く印象づけたのでした。さて,桂太郎が辞めさせられましたねー。明治天皇に桂の首相就任を推薦した元老の山県有朋も「さすがにちょっとこれはまずかったか」と反省します。そこで,民衆の意向を汲むような人事を図り,民衆から「ミスター」あるいは「英雄」とあがめられている人物を起用します。

 

桂太郎(ニコポン宰相)

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・ニコニコ笑って相手の方を叩いて人心をつかむことに長けていた首相

安倍晋三に次ぎ2番めに首相歴任日数が長く2886日。

・長州・陸軍出身ではあったが,政党との妥協も図った。

第1次内閣ー日露戦争を遂行

第2次内閣ー大逆事件韓国併合

第3次内閣ー第一次護憲運動で退陣 

 

第1次山本権兵衛内閣

この山本権兵衛というのは,薩摩出身で海軍出身です。ここまでの紹介だと,ゴリゴリの閥族政治のような気もするのですが,山本権兵衛は非常にバランス感覚に優れていて,非常に人柄も良く立憲政友会の後押しもあったおじさんです。まぁ,名前もゴンベェさんですらかねぇ。時には「田舎のおやじみたいな名前だから改名したら?」と進められたりもしたそうですが,山本権兵衛さん自身は「いやいや,わしはね,田舎のおやじでいいんだよ。ゴンベエでいいんだ」と非常に人柄の良い政治家でした。

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こうした山本権兵衛さんは,桂さんの大正政変を目の当たりにして,まずはバランスの良い政治をやらなきゃなということで,あのゴネ得の軍部大臣現役武官制を改正します。現役といっても,現役の幅を広げて,例えば軍のOB(予備役後備役)なんかでも陸軍大臣海軍大臣をやってもいいよ。そうすることで,陸軍海軍が万が一ゴネたとしても,誰かにわたりをつけてお願いしますって言えば,大臣になってくれる可能性も高くなると考えたのでした。

 

軍部大臣現役武官制の推移

制定(1900)ー山県有朋②内閣

廃止(1913)ー山本権兵衛①内閣 ※予備役・後備役OK

復活(1936)ー広田弘毅内閣 ※現役制復活    ⬇

※実際の運用では政党員や予備役・後備役から任用された例はない。

 

そして,もう一つは文官任用令の改正です。これは,軍部大臣現役武官制とセットで山県有朋が作った制度なんですが,今までは政党員は公務員の高級官僚にはなれないことになってたました。けれども,それをなれるようにしたのですね。簡単に言うと,西園寺内閣が,陸軍や海軍にゴネられて総辞職に追い込まれたときのように政治の混乱を防ぐために,政党の力が官僚や軍に及ぶようにしようじゃないか,としたのでした。

 

このようにバランス感覚に優れてやりかたで,なかなか筋も通っていたので人々に人気もあった山本権兵衛内閣だったのですが,ここでジーメンス事件という出来事が起こってしまいます。これはドイツのシーメンスという会社から,海軍の人が賄賂を受け取ったのでした。この賄賂を受け取った山本さんではなかったのですが,山本さんのお膝もとの海軍の人間が賄賂を受け取るというような事件を起こしてしまったために,これによって山本さんは責任を感じて第一次山本権兵衛内閣は総辞職するわけです。

 

 

第2次大隈重信内閣

さて,次の内閣は第2次大隈重信内閣です。大隈内閣は,前に問題にあがっていた陸軍2個師団増長案が国会を通過します。なんでか?っていうと,この裏にはいよいよ第一次世界対戦に向けて世界がグーッと動き出しているからですね。日本もその勝ち馬にのるってことで,兵隊さんが欲しい!ということもあって第一次世界大戦が勃発し,日本も参戦していきます。これは後ほど詳しくお話ししますが,中国に二十一か条の要求をつきつけるということになります。第一次世界大戦は,大正がスタートして2年後に勃発するということになります。