日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

158 講和と安保条約

前回は,吉田茂内閣②と吉田茂内閣③前半では,日本を無力化するよりも日本を自立させて利用させてやれっていうアメリカの政策転換がありましたね。そして今回は,吉田茂内閣③の後半では,サンフランシスコ平和条約で日本の主権を回復させて,同盟国として利用してやれってことで,日本が国際社会に復帰していく場面を見ていきたいと思います。

 

まずは朝鮮戦争と日本というテーマで少しお話したいと思いますが,その背景についてです。戦後日本はとてつもないでインフレで大変な状況でした。このままでは竹馬の足が折れて転倒してしまうということで,ジョセフ=ドッジは均衡予算で赤字許さないし,復興事業なんかを全部カットしていくんでしたね。非常に厳しい不況になると,会社はリストラを始めますが。生き残ったお父さんたちが必死になって働く,必死に働けば良いもので安いものができるから売りやすくなる,また1ドル360円の単一為替レートも設定されました。しばらく厳しい状況が続いたわけでが,これを吹き飛ばしたのが隣国の朝鮮戦争でした。

 

第三次吉田茂内閣後半

1950年,あの北朝鮮大韓民国が戦争状態となり,冷戦の代理戦争と言われています。この朝鮮戦争は我が国大変大きな影響を2つ与えたわけですが,まず1つ目が,このデフレからの脱却のきっかけになりました。つまり朝鮮戦争が起こると,そこを占領してるアメリカ軍がメインとなって大韓民国を助けに行くわけですよね。ですからアメリカ軍に対するサービスの提供というもので日本の経済はデフレから脱却して特需景気という状況になりました。で,デフレ状態から景気がにわかに回復し,この後にしばらくして高度成長へと流れていくわけですね。だからそういった意味では。その一つのきっかけということになります。

 

もう1点が警察予備隊です。要するにこれはいわゆる再軍備というやつで,隣の国の戦争ですから火の粉が飛びかかって来ないとも限らない,だったら自分のことはとりあえず自分で守らなければならないですよね?ということでアメリカのGHQの要望で,当時7万5000人の募集でしたが不況であったこともありすぐ定員締切となりました。そんな警察予備隊ということですが,これは立派な軍隊なんですが,日本は民主化をうたっていくわけですから,名前を軍隊とはいわず警察予備隊という名前を用いました。警察予備隊の幹部は,何を隠そう戦前の軍人たちです。軍部の幹部たちがここに再就職してるんですね。それはやっぱりいざとなった国を守らないといけない組織ですから素人が作れるわけないですよね。ということで軍事経験者たちが幹部になって復活させました。要するに再軍備といってもいいでしょう。この警察予備隊がのちに保安隊となり,保安隊が最後に自衛隊となっていくわけです。

特需景気による再軍備

 警察予備隊(1950)

   ↓

 保安隊(1952)

   ↓

 自衛隊(1954)

 

ここは憲法を見るとちょっと憲法違反ではないかという意見もあります。そのあたりの議論はこれからもしていくべきでしょうけど,まぁ今の国際情勢見るか限りまだまだこういうものは必要かもしれません。ただ海外派兵はちょっとやめたを方がいいです。だって自衛隊はいってみれば日本の侍を人たちなんですよ。侍の魂を外へ出していくのは危険極まりないと僕は思います。

 

ところで,朝鮮戦争で景気も回復しましたし,再軍備をしながらアメリカとしても日本をそろそろ独立させるかということで7年間の占領を経てサンフランシスコ平和条約 を結んで独立させますが,ただでは日本を独立させないって辺りがアメリカの上手なところなんですね。何が上手かというと,朝鮮戦争アメリカ軍が韓国へ応援しにいくために前線拠点としたのが日本だったんですよね。やっぱり日本に基地を置いておかないと具合が悪いっていう状況を作り出すんですね。占領はしないけど,駐留はするぞ!ってことで結局はアメリカ軍基地を残すんですね。だから現在も日本には基地が残っていますよね。ということで,1951年にサンフランシスコ平和条約を結びます。さらに同年には日米安保条約も締結し,1952年にサンフランシスコ平和条約が発効され,これで名実ともに独立します。そして,自分の身は自分で守りや〜ということて1952年に保安隊でしたね。そして,安保条約の具体的な取り決め(基地をどこに置くか?分担金どうするか?など)を1952年に日米行政協定で決定し,1954年には軍事協定であるMSA協定を結ばれ,同盟国のアメリカが「金貸すでぇ〜」という提案に対して日本も「そしたら借りまっせ」ということで同年に自衛隊へと改組されていったのでした。

インフレ→ドッジデフレ…朝鮮戦争(1950〜)

サンフランシスコ平和条約(51)

日米安保条約(51)

平和条約発効(52)

日米行政協定(52)

MSA協定(54)

 

大きな流れはつかめましたでしょうか?というわけで朝鮮戦争について最後にみておきましょう。

 

朝鮮戦争

 大韓民国朝鮮民主主義人民共和国との戦いで,それは北緯38度線の国境紛争が発端で3年余り戦ったのち,板門店休戦協定が結ばれています。板門店は,あのトランプ大統領金正恩が握手をして抱き合った場所ですね。で,実は朝鮮戦争は現在も休戦中で,まだちゃんとした終戦を迎えてはないんですね。ですから,韓国ではまだ徴兵制がありますよね。テレビでよく韓流スターの人たちが徴兵されましたとかニュースになっていますね。

 

さて,朝鮮戦争の日本対する影響は特需景気でした。この朝鮮戦争では,日本はアメリカ軍に対してサービスを提供したりしましたね。これによってドッジデフレからの脱出が可能となりました。また再軍備として警察予備隊が創設されます。ここまではいいんですが,一方でいわゆる逆コースとも言われる,これまでとは真逆の動きが出てきます。 例えば,共産党幹部の公職追放を示すレッドパージがそれに当たります。レッドとは,共産党のトレードマークである赤のことをいいます。要するに,日本が与するアメリカが敵対しているのが社会主義なんですよね。その北朝鮮というのは共産主義の国ですから,言って見れば,日本の共産党幹部は北朝鮮のスパイだ!ってみなされるわけですよ。実際はそうじゃないんけどね。それで,日本では民主化の中でも共産主義は合法化されているにもかかわらず,公職追放!っていう流れが政治家や公務員だけではなく,一般の職場にも及んでしまうんですね。こういうのをレッドパージというんです。一方で,それまで戦犯容疑者として巣鴨刑務所打ち込まれてた人達が,釈放されるんですよね。戦前の軍国主義者の軍人や政治家が釈放されます。軍人の中には釈放された後警察予備隊の幹部になるものをいました。つまり警察予備隊というのは立派な軍隊なんですね。そして,公職追放の解除がなされます。軍国主義の公務員や学校の先生も職を追われていましたが,「まぁもういいんじゃねー」かということで,軍国主義の学校の先生が学校へ戻ってくるんですよ。だってそうでしょ?学校教育の中って軍国主義じゃないですか。「前へならえ!なおれ!気をつけ!礼!!」「行進はじめ!左,左,左右!!」「右向けー右!」ってさぁ…。右向け右して歩く人いてますか?一般社会じゃいないよね?どこの戦地へ連れて行かれるんでしょうねぇ。1928年田中義一内閣のときに始まった国民の健康保持のための体操(ラジオ体操)も令和の今でもやってるんですからねぇ。いや,別に学校教育が軍国主義だって批判しているわけではないんですけどね,でも現場で働いている人間として「おかしいなぁ」って感じるわけですよ。

 

講和と安保条約

やがて日本はですね,この朝鮮戦争で景気も戻ってきましたし,アメリカの方も金もかかることだし,これはいつまでも占領するわけにはいかないってことで,これまで7年間占領してきた日本をそろそろ独立させようとする動き,講和と安保条約へと移っていきます。

 

そこでまずは日本が独立するためには,これまで戦争した連合国と仲直りをしなければいけないんですね。そこで国内では全面講和論単独講和論といった2つの論争があったんですね。これはどういうことかというと,民主化を受けている日本人からすれば,やっぱり戦った全ての連合国と仲直りしようや!っていう意見と,アメリカと敵対する社会主義国を除いたすべての国と仲直りをしようや!っていう意見に分かれたんですね。結局,当時の吉田茂内閣は,単独講和に踏み切ることになります。まあ現実を取っ たって感じですね。吉田茂は葉巻がトレードマークでとにかくこの人は口の悪い人で,とにかく敵対する相手には何でもズケズケいってしまう人でしたので,当時理想論を掲げて全面講和を唱えていた東大総長の南原繁にに対して「曲学阿世の徒」と批判をしていました。どういうことかというと,「いくら民衆が全面講和だからといって,現実も知らん人間が人気取りのために言うているだけだ!」といった意味ですね。東大の先生捕まえて曲学阿世の徒といったり,二・一ゼネストでも労働者捕まえて「不逞の輩」といったり,とにかく口が悪いんですね。

 

というわけでサンフラシスコ講和会議のお話になります。条約はサンフランシスコ平和条約って言います。日本全権は吉田茂が自らサンフランシスコへ赴きました。ただこんな問題点がありますので見ておきましょう。まず講和特使のダレスが,日本に来て細かい取り決めをしていく上でのお世話をしてくれた人なのですが,当時中華人民共和国中華民国はいがみ合っていたのでこの人達を招くのはちょっとどうだろう?ってことで招かれませんでした。日本にとって一番長きに渡って戦っていた相手である中国こそこの会議に招くべきだったのですが招かれませんでした。あと,インド・ビルマユーゴスラビアは不参加でした。一方で,ソ連や,ソ連に与するポーランドチェコスロヴァキアなどは会議には参加するんですが「これは単独講和の匂いがする!」として平和条約にはサインしませんでした。

覚え方

チュー  ,  チュー  , ねずみは招かれず

中華人民共和国  中華民国

↓           ↓

日中共同声明(1972)  日華平和条約(1952)

※両国とはのちに講和をします

 

 

サンフランシスコ平和条約

ということで条約が締結されます。日本も含めて49カ国が1951年に調印をし,1952年に発効されます。このタイミングで日本は主権を回復することになります。ただし,主戦場となった沖縄小笠原奄美大島は依然アメリカの支配がつづきます。それから朝鮮の独立や戦前日本が植民地としていた台湾や,領有していた澎湖諸島千島列島南樺太は放棄させられます。そして,現在の日本列島の国域となります。ただし,千島列島についてはあとで大きな問題になってくるのですが,日本側としては国後・択捉は放棄の対象外と考えていました。というのも,国後・択捉はいまだかつてロシアのものになったことは一度もなかったですし,当然日本のものだと主張していたのですが,聞き入れられずすべてロシアのものとなってしまいました。

 

さて一方で,賠償金なのですが,これは経済的自立を最優先させるために最低限の賠償しか求められませんでした。要するにアメリカさんが「おい!みんな,賠償金は勘弁したってくれぃ。何でか言うたら,アジアの資本主義国として共産主義国の盾になってもらわないといけない国が日本なんやろ?だから強い国に経済成長してもらわなんだら困るやろ?」ってことから無賠償となる方向でもあったのですが,東南アジア諸国が反対したために第14条で連合国に賠償を支払うべきことと明記されたのでした。