日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

167 明治の文化①

さて,いよいよ佳境に入ってきました。ここからラストまでは明治・大正・昭和の文化を扱うんですけれども,文明開化はすでに扱いましたので,それ以降の文化を見ていきたいと思います。ここから明治の文化に入っていきますよ。

 

思想

まずは思想についてなんですが,思想は主に2つあって,民権論と国権論を軸にしていけば明治の思想はわかりやすくなるんじゃないかなと思います。それぞれの特徴ですが,まずは国権論の方が理解しやすいと思いますので先にみて行きたいと思います。

国権論

まず国権論というのは,日本にペリーがやってきて開国してみたら,外国の様子がよくみえるわけですが,欧米列強が世界中を自分のものにしようとしていて,そんな中で遅れていった日本を強くする,あわよくばそこに日本がうって出ようとするため,あるいは海外の植民地にならないようにするためには,国家の独立を維持し,ある程度は民権は切り捨てても構わないっていうとする考えのことを国権論というんですね。学校の部活とかに例えるなら,強いチームにするためには,ある程度個人の意見は切り捨てても構わないってことです。「先生!今度の日曜は休みにしませんか?」「ダメだ!強いチームになりたいんだろ?試合で勝ちたいんだろ?」って感じですね。

 

民権論

じゃあ,民権論はどうなのかっていうと,日本はそりゃ強いに越したことはないんだけど,ただ国民の自由や権利も大切だよ!って考え方ですね。私たちも日本が強い国になるのはいいんだけど,しかしその前提として国民の中や権利はやはり犯してはいけないっていうのを民権論といいます。

 

いいこういった2つの軸で見ていけばいいと思います。だから民権論でもやや国権論寄りになったりすることも十分考えられるわけですね。そこで,まずは文明開化期の思想なのですが,これはまだ日本のものにはなってなくて,「西洋の書物にこういう民権論とかこういう国権論っていう意見があるんらしんんだけど,みんなどうっすか?」って感じで,海外の本や欧米の思想を紹介する段階が文明開化の時代ですね。たとえば,イギリス流の功利主義的な考えとして福沢諭吉は,「社会は生み出される幸福の量が最大であればあるほどいいんだ。それであれば王権を認めてもいいんだ」っていう考え方ですね。あるいはフランス流の自由主義な考え方として中江兆民は,「国っていうのは国民同士が契約して,合意を形成した上で法律に従うべきだ」っていう考え方ですね。あるいは,ドイツ流の国権主義で,これは「強い国にするためには民権は多少切り捨てても最終的には強い国になるんだ」といった考え方ですね。

 

日清戦争

このような海外の意見を紹介していく段階が文系開花期の我が国の思想です。さて,このような学校でいえば部活動論でしたが,いよいよ公式戦が近づいてくるわけですね。そうすると,民権論VS国権論という構図がより強くなっていきます。それは,朝鮮半島情勢が複雑化し,日清戦争がいよいよ近づいてくるわけですね。ここが,民権論と国権論が盛んに戦わせていくことになります。

 

そして,この時期の民権論平民的欧化主義といって,国民の生活向上のための西洋化は必要だとする考え方です。代表的な人物として徳富蘇峰があげられますが,彼は民友社を結成し,雑誌「国民之友」を発行しました。

 

一方で,国権論はというと,近代的民主主義といって,国民の幸福は国家の独立,国民性の統一が必要だとする考え方です。三宅雪嶺は「日本というのはだんだん欧米文化が入ってきて,日本人としての純粋さが失われてきている。ここが問題なんだ!」として,どちらかというと排外的なスタンスで国粋保存主義な考えを持っていました。三宅雪嶺は,政教社を立ち上げて,雑誌「日本人」を発行しました。他には陸羯南のように日本はこれから世界にうって出るのだが,排外的ではなく日本が正義の軍隊となって,アジアで植民地支配をしようとしているアメリカをストップさせるべきだ!っていう考え方です。つまり,帝国主義化をストップさせるためにも西欧化はやむを得ないっていうことです。まぁ,こうして日本は日清戦争に勝ったわけですね。

 

日清戦争・三国干渉後

勝ったのに,三国干渉で遼東半島を返さないといけないようになったんでしたね。そうすると,これはさすがに悔しい!ロシアと戦争をやろう!ってことで,これまで民権論を振りかざしていた徳富蘇峰国権論の転換し,対外膨張論に転じていきます。やっぱり試合に勝ちたい!だから個人はちょっと犠牲にしてでも試合に勝つ喜びをもう1回味わいたいというようなイメージだと思ってください。それに対し,反戦をとなえたのが,幸徳秋水堺利彦平民社の人たちでして,内村鑑三も加わり「平民新聞」を発行していくのですが,その規模は小さいものでした。

さて,この時の国権論を唱えた人に,日本主義を唱えた高山樗牛という人がいます。雑誌「太陽」を発行し,日本の大陸進出を肯定していきました。で,さきほどの蔵葛南は欧米諸国の帝国主義を止めるため,アジアを帝国主義国家から守るために日清戦争で打って出るべきだって言っていましたよね。でも,やっぱり勝利を一度味わうと考え方も変わり,対露強硬論に転換し,日本の大陸進出を容認していきます。

 

こうした国権論の推移を中心にみていくと整理しやすいと思います。日清戦争前はどのように日本チームをまとめるかっことで,三宅雪嶺(国粋保存主義)は日本の文化をしっかり礎にしたチーム作りをしようとしましたが,一方で陸羯南国民主義はアジアを欧米列強から守るための正義の戦争の一貫であると理由をつけて,西欧化はやむを得ないという考えがありました。しかし,日清戦争で勝利を味わってしまうと,高山樗牛(日本主義)帝国主義を日本もやっていくべきだ!陸羯南もやはり正義のための戦争から帝国主義の一員にオレたちもやってやるぜ!ってことに転換をしていきます。

 

日露戦争

このようにして,ロシアと戦って勝利はするものの日本にとって日露戦争は旨みのあっ戦いだったでしょうか?違いますよね!ポーツマス条約で賠償金がとれなかったんでしたね。いろんなモノを犠牲にした割には国民の生活向上にはすぐには繋がりませんでした。そうすると当然国家に対して疑問が湧いてくるわけです。やはり国家的利害よりも,個々人の暮らしが良くなったほうがいいよね!っていう風潮が強まります。そこで政府は戊申詔書という天皇のお言葉をだすわけですね。「日露戦争に勝ったからといって浮かれていてはなりません」といった内容で引き締めをはかったのでした。むしろ,思想の世界では民権論や国権論に対して社会主義が台頭していきます。資本主義が確立すれば資本家ー労働者といった格差が生まれるので,そこに平等を求める社会主義が成立していきます。しかし,幸徳秋水天皇暗殺疑惑でとっ捕ったりして処刑される大逆事件もありましたので,ここから大正に入るまで社会主義は「冬の時代」を迎えます。

 

明治の宗教

明治では神道仏教といった伝統的なものと,海外の人々がやってくるわけなのでキリスト教が入ってきます。時には対立を起こし,時には競合しながら,新しい文化を受け入れていくようになっていきます。

では,神道の世界ですが,文明開化のあたりでは神道をどちらかというと国教化する動きもみられたのですが,やはり仏教の勢力も根強かったのでおいそれと国教化はできなかったのでした。そして,幕末から明治初期に生まれた教派神道ができて何十年も経過すると,だんだんそれが定着していきます。

仏教はというと,廃仏毀釈でお寺や仏像が壊されたりもしたのですが,島地黙雷らが回復に努力しました。

キリスト教は,外国人教師の影響が強く,たとえば札幌農学校クラーク先生であたり,熊本洋学校のジェーンズ先生なんかも,別にキリスト教を直接持ち込もうとしたわけではなかったのですが,やはり先生の影響力というのは大きいものでキリスト教拡大に寄与しました。やがて日本人も,彼らの影響をうけて先例をうけて内村鑑三新渡戸稲造海老名弾正などが活躍しました。新渡戸稲造なんかは国連事務局次長になったりして国際平和に貢献したり,海老名弾正なんかも同志社の総長になったりしたんですよ。