日本史オンライン講義録

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014 舒明・皇極・孝徳天皇の時代

前回は推古天皇の時代、飛鳥文化をお話しました。今回は、また政治のお話に戻って推古天皇のあとの舒明天皇皇極天皇そして孝徳天皇、以上3人の天皇にまたがった時代です。舒明天皇はこれから話すとして、あとに続く皇極天皇孝徳天皇の時代ってどんな時代かというと、中学校のときに習ったあの大化の改新の時代だと思ってくれれば結構です。大化の改新といえば、中大兄皇子中臣鎌足が謀って蘇我入鹿を暗殺し、それを見たお父さんが自殺をして蘇我氏滅亡・・・。という殺人事件のことって習ったと思います。ではなぜ蘇我さんが殺されたのでしょうか。もちろん独裁を極めていたり、政治の権力闘争に破れたということもあるでしょう。でも、もっと広い視野でこの殺人事件を見ていかなければならないのです。

 

舒明天皇の時代

それではまず最初に舒明天皇の時代をみていきたいと思います。舒明天皇の前の天皇推古天皇の時代には遣隋使を送っていたのですが、隋という王朝は高句麗遠征で疲弊したため短命で終わってしまいました。そして、唐という王朝がおこりました。そんな唐に初の遣唐使として派遣されたのが犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)です。舒明天皇の時代=初の遣唐使犬上御田鍬)の時代と結びつけて抑えましょう。

 

皇極天皇の時代

これは女性の天皇です。あの中大兄皇子のオカンにあたる方です。そんな女帝の時代に、あの蘇我入鹿が権力を独占していくわけです。蘇我氏といえばまずは馬子、そして子の蝦夷がいました。さらに孫の蘇我入鹿の時代に入ると専横極まり、なんと重要な皇位継承者であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を殺害していまいます。お父さんはあの厩戸王です。あの冠位十二階や十七条憲法に尽力をした厩戸王の子だけにやはり息子も改革派だったわけで、早くから新しい国家づくり(天皇を中心とする国家づくり)を構想していたと考えられます。権力を独り占めしたい蘇我入鹿は「あぁ?天皇が中心だと?ふざけるな。あいつを消せ!」ということで、山背大兄王を自殺に追い込み文字通り殺害してしまうわけです。

そんな最中、唐から留学生や留学僧が帰国をします。「てーへんだ、てーへんだ!中国にものすごい強大な国家が作られたぞぉ。このままでは唐に食われてしまうぞぉ。早く我が国もあの国のように天皇を中心とし、戸籍を作って口分田を与えて、徴税して、徴兵する国家づくりを急がなければならないんだ」というムードになり、天皇をないがしろにして権力を独占しようとする蘇我氏を力づくで引きずりおろす作戦にでます。

「しかし、いつも手厚いボディガードがついている入鹿の命を奪うにはどうしたらよいのか。」中大兄皇子は考えます。「そうだ、唐の皇帝からの贈り物贈呈式っていうニセの朝廷儀式を開いて天皇(おかん)の前に入鹿を呼び寄せよう。そうすれば、ボディガードはもちろん、天皇の前では武器さえも取り上げられる。ノーガードになった入鹿をいっきに叩き沈めればいいのだ。」と。ちなみに、このときに一芝居うって入鹿にスキをつくったのが蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)でした。そう、蘇我氏の一族を見事こちらに取り込んだのでした。

乙巳の変

645年、中大兄皇子中臣鎌足らによってついに蘇我入鹿を暗殺、父の蝦夷も勝ち目なしと悟り自らの屋敷に火を放ち自殺、蘇我氏が滅びることになりました。これを大化の改新というわけですが、大化の改新というコトバは殺人事件を指すのではありません。大化の改新とは、これから新しい国家=律令国家(天皇中心の国家)を作るぞぅ!とする一連の政治改革のことをいいます。幕末の「明治維新」みたいなニュアンスだと捉えてもらえれば結構です。そして、さきほどの殺人事件のことを乙巳(いっし)の変といいます。古代まれに見る壮絶な殺人事件ですね。今でいえば、皇室行事に呼ばれた内閣総理大臣天皇陛下の眼の前で、皇太子さまに殺害されるみたいなもんですよ。今もしそんな事件が起こったら一大事件ですよね。だから殺人事件の方があまりにもインパクトが強すぎて、大化の改新は殺人事件のことを指すと思ってしまっても仕方ないかもしれません。

 

孝徳天皇の時代

このように皇太子が内閣総理大臣を殺害するというような大事件が起こってしまっては、国民の心は落ち着きませんよね。そこで、人心一新をはかり、皇極天皇から孝徳天皇へとかわり、都も飛鳥から難波宮(難波長柄豊碕宮)へ移します。孝徳天皇は、皇極天皇の弟に当たる人です。中大兄皇子からみれば叔父さんにあたる人ですね。そして、蘇我氏を倒し、中大兄皇子が中心となって政治改革を行います。乙巳の変以降の政治改革のことを大化の改新といいます。それでは改新政府のラインナップをみていきましょう。

改新政府のメンバー

 それにしても、なぜ大化の改新というのでしょうか。これは初の年号を「大化」としたからです。そして、大化の改新の政治方針を示した発表のことを改新の詔といいます。

改新の詔

①公地公民制

まずは、公地公民制への移行ですね。公地公民というのは、すべての土地と人民を国のものにしよう!という意味です。今までの仕組みをやめて、新しい仕組みにしなさいということですね。かつて学習しましたが、天皇の所有する人民のことを何といいましたか?そうですね、名代・子代といいましたね。また、天皇の所有する土地のことを何と言いましたか?はい、屯倉といいましたね。一方で、豪族の所有する人民、豪族の所有する土地のことをそれぞれ部曲、田荘といいました。

「昔の天皇等の立てたたまへる子代の民、

 処々の屯倉

 臣、連、伴造、国造、村首の所有る部曲の民

 処々の田荘

 を罷(や)めよ」 

 つまり、子代・名代、屯倉、部曲、田荘をやめなさい!っていう意味ですね。私有をやめて公地公民、すべて国のものにしなさい!ということですが、じゃあ豪族たちは「じゃあこの先オレ達どうなるの?生活していけないじゃん」となるわけですよね。そこで、政府は「大丈夫!安心しなさい。かわりに食封をあげるから」と言って、土地を取り上げられた豪族にはお給料のようなものが支給されました。確かに公地公民にしたので豪族らが持っている土地や人民は国のものになるけど、そのかわりに戸(農家)を宛てがって支給して、その戸(農家)から上ってくるコメの半分、あるいは地方の産物などのすべてをお前のものにして良いぞ!っていうことを食封といいます。

 

②地方行政組織の整備

国司や郡司を置きなさい!」「国や郡といった行政区分を組織しなさい!」と言ったものです。郡っていうのははじめは評(こおり)と呼ばれたってことを覚えておいてください。現時点では「?」かもしれませんが、後に詳しく解説しますのでよろしく。

 

③戸籍・計帳・班田収授法の実施 

戸籍を作りなさい!」「税を徴収する台帳となる計帳を作りなさい!」 6歳になった人民に土地(口分田)を与え、そして死後は国に返却しなさい!」 といった仕組みを整えることで、税金のとりっぱぐれを防止しようとしたのでした。

 「初めて戸籍計帳班田収授の法を造れ」 

 

④統一的税制の施行(田の調)

こうして班田収授の法を行った理由は税が取りたいわけですので、だったら統一的税制を施行しましょうということで、戸籍・計帳や班田収授に支えられたとりっぱぐれのない税金のしくみを作りましょう!としたのでした。

 

中大兄皇子の権力拡大

中大兄皇子もまた自分の権力固めをしようとするタイプでした。昔、乙巳の変のときに蘇我氏でありながらも協力してくれた蘇我倉山田石川麻呂(右大臣)有間皇子をといった政治のライバルを次々と滅ぼしたのでした。そして、東北地方へと勢力を伸ばそうとします。というのも、まだ朝廷は日本全国を支配しきってはいるわけではありませんでした。そこで、東北地方に渟足柵(ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねのさく)を設置して、これから蝦夷支配にむけて足がかりとしての砦を整備していくのでした。

 

まとめ

今回は、舒明天皇皇極天皇孝徳天皇の時代のお話をしましたが、中大兄皇子が中心となって、権力をほしいままにしていた蘇我入鹿たちを滅ぼし、新しい国家づくりをはじめました。それは、公地公民制であったり班田収授であったり、大化の改新といった政治改革でありました。