日本史オンライン講義録

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012 崇峻天皇・推古天皇の時代

前回は、継体天皇欽明天皇の時代でした。大伴氏が任那4県割譲問題で失脚をし、そのあと蘇我氏物部氏が登場しましたね。仏教を受け入れる受け入れないの問題から蘇我氏物部氏の対立へと発展していった時代でした。さて、今回は崇峻天皇推古天皇の時代を取り扱います。推古天皇といえば、聖徳太子蘇我馬子とも深い関係のある天皇で、中学でも習うほどわりと有名な天皇であります。

 

敏達天皇用明天皇の時代

継体、欽明ときて崇峻天皇に入る前に、敏達、用明という2人天皇がいるのですが、この二人の天皇の頃に何が起こったのかというと、蘇我氏物部氏の間で対立がありました。そのうち蘇我氏が権力を拡大していき、握ったものは何かというと、財政権でした。いわゆるヒト・モノ・カネのうちカネに当たる部分ですね、この財政権というのは具体的にいうと三蔵(みつのくら)といって朝廷の財産管理を任されたのです。三蔵は、斎蔵(いみつくら)内蔵(うちつくら)大蔵(おおくら)の3つです。現代では国の財産を握る大臣のことを財務大臣といいますが、30年ほど前は大蔵大臣といっていました。その大蔵です。そして、崇峻天皇の時代に入っていきます。

 

崇峻天皇の時代

大臣の蘇我氏と、大連の物部氏の対立が激化していく時代です。まず蘇我氏側ですが、ここでビッグネーム2人の登場です。それは蘇我馬子ですね。中学のときにも習ったのではないでしょうか。そして、もう一人はというと厩戸王(うまやとおう)です。厩戸王というとピンと来ない人もいるかも知れませんが、いわゆる聖徳太子ですね、ビッグネームです。このビッグネームの2人がタッグを組んで物部氏をやっつけていきます。実際、弓矢を交えた戦へと発展していくのですが、この物部氏側は誰かと言うと物部守屋(もののべのもりや)という人です。物部守屋が滅び、蘇我氏が権力を独占した状態になります。では、こういうことをどんどんやってのけて、蘇我氏の権力が拡大していくわけですが、天皇をもないがしろにするほど、天皇をしのぐ権力を蘇我馬子は持つわけですね。そうすると、この崇峻天皇は急速な権力拡大をもくろむ蘇我馬子をよからず思い、そこで言っちゃうんですよね。「最近、馬子のやつが威張って仕方ないんだよな。あいつ、天皇のこのオレをないがしろにしよって」って。そんな崇峻天皇のもとに一頭の大きなイノシシが献上されました。すると、崇峻天皇は手元の剣をスラリと抜いてイノシシの首にあてがって「あぁ、この首がヤツの首ならなぁ・・・。」って言っちゃうんですよ。この崇峻天皇にとってヤツっていうのはきっと蘇我馬子に違いないっていうウワサがウワサをよび、そして蘇我馬子の耳にまで届いたのです。殺られる前に殺ってしまえではないのですが、蘇我馬子もこうなったら崇峻天皇をもう暗殺してしまうしか為す術がありません。そして、蘇我馬子による指示で、崇峻天皇が何者かに暗殺されるのでした。この出来事から、馬子はいつしか天皇をも凌ぐほどの権力をもつようになったのでした。それでは、崇峻天皇の次の天皇の時代をみていくことにしましょう。

 

推古天皇の時代

このようなご時世ですので、もちろん推古天皇蘇我馬子厩戸王の力添えがあったからこそ即位できたのですが、もともと推古天皇というのは厩戸王のオバさんにあたる人でもありました。ですので女帝です。それでは推古天皇の時代の政治をみていきましょう。

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冠位十二階

冠位十二階といって、個人に冠を与えて、色ごとに順位を付けました。色ごとに上・下のランクを設けて、一番偉い方から順番に、紫→青→赤→黄→白→黒の合計12階級のランクを設定し、これを個人に与えました。今までの氏姓制度であれば、たとえば蘇我氏であれば蘇我氏全体に対して臣っていう称号を、大伴氏であれば大伴氏全体に対して連といった称号を、一族単位で一族全員に与えていたのですが、やっぱり蘇我氏の中でも出来の悪いヤツはいたでしょうし、大伴氏の中でも凄い優秀な人がいるかもしれない、とにかく優秀な人を上位に引き上げて国家のために働いてもらおうじゃないかということで、ヤマト政権時代と比べると個人単位の人材採用を重視したのでした。でも蘇我馬子はちょっとずるくて、馬子は冠位十二階の対象外で、いわゆる別格扱いを受けていたのでした。やっぱり権力者として特別な地位にいつまでも居たいっていう気持ちが見え隠れしていますね。

憲法十七条

憲法といっても今のような日本国憲法とかではなくって、国民全体というよりかは役人に対して投げかけられ、官僚としての心構えと自覚を求めたものでした。今までは豪族だったわけですよね、蘇我氏でも物部氏でも豪族でした。要するに、その土地その土地を治めてきたお山の大将であったのですが、これからは国家のために官僚として自覚と節度を持って国をうまく運営できるよう一つ頑張ってくれよなって意図があったのだと思います。そして、憲法十七条での大きな柱として、仏教を重視する政治を宣言しました。官僚としての心構えといえば具体的にどんなものがあるのかというと、

「詔(みことのり)をうけては必ず謹しめ」

って憲法十七条に記されています。これは、天皇の命令を受けたら必ず従いなさい!豪族から官僚になりなさい!といった自覚を求めたのですね。また、権力を相当高めていた蘇我馬子への牽制とも言えるでしょう。

「和をもって貴しとなし、さからふることなきを宗とせよ」

和を大切にしなさい。そして、仲違いを起こしてはならぬ。ということです。これも官僚としての心構えと言えるでしょうね。

「篤く三宝を敬え」

三宝っていうのは、仏・法・僧のことを指します。つまり、仏様や経典そして僧侶などを大切にして仏教に深く学び帰依しなさいよ、っていう意味ですね。仏教を強烈に重視していますよね。

 

遣隋使の派遣

さて、推古天皇の時代に、中国の隋という国に派遣されたのが小野妹子(おののいもこ)ですね。妹の子って書くので女じゃねえのかって思いがちなのですが男ですよぉ。国書で隋に対等外交を求めました。このことが隋の皇帝である煬帝(ようだい)の怒りをかうことになります。なぜ怒りをかったのかというと、このことが中国の歴史書シリーズ「隋書倭国」の中で

日本の王で多利思比孤(たりしひこ)の使者がやってきて、その書には「日出処の天子推古天皇)が、日没する処の天子(煬帝)に書を送りますよ」って書いてあった

って記録されています。多利思比孤っていうのは推古天皇のことですよ。それにしてもこれ、どう考えても無礼ですよね。ケンカ売っているとしか思えない書き方ですよね。しかも今まで下に見下していた国から、いきなり対等目線っていうか上から目線でモノを言われればそりゃ激怒しますよ、そんなもん。しかも煬帝の煬っていう字は「厳しい」「焼き尽くす」「メラメラとした」「ぎらついた」といったどちらかというとbadなニュアンスを持っていて、そういう皇帝だったといわれるくらい煬帝の性格も厳しいものがありました。そんな厳しい、焼き尽くす恐ろしい皇帝に対して無礼な内容の手紙を送るとはちょっと推古天皇も下調べちゃんとしろよって感じではあるのですが、ただ煬帝さんも日本と結びつきができるってことはそれほどデメリットなことではないと判断し、日本から中国に送られた留学生として高向玄理(たかむこのくろまろ)南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、そして留学僧として旻(みん)の3人を受け入れました。但し、遣隋使を派遣してからものの10年ちょっとで隋は滅んでしまいます。その代わりに唐が起こります。

 

今回はココまでです。