日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

011 継体天皇・欽明天皇の時代

飛鳥時代の東アジア

飛鳥時代の東アジアは、朝鮮半島が大きく4つに分かれていました。まず、北部が高句麗、そして西部に百済、東部に新羅がありました。

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そこで、高句麗が次第に南下してきて、百済新羅を圧迫しました。そうするとビリヤードのように突かれた百済新羅は、さらに南下して加耶諸国を圧迫するわけです。すると、日本にとってどういう影響があったのかというと、加耶諸国というのは日本の勢力圏だったわけですので、次第に朝鮮半島における日本の立場が危うくなっていくということになりますよね。これが飛鳥時代に入ったころの東アジアの情勢です。

 

豪族同士の対立

では、飛鳥時代の日本国内、つまりヤマト政権にはどういう変化があったのでしょうか。まず飛鳥時代の入り口の部分で勢力を誇っていたのが大伴氏という豪族でした。ところがこの大伴氏が勢力を失い、大臣の蘇我氏と大連の物部氏が互いにしのぎを削り合う状況になります。この大臣っていうのは、今で言う総理大臣、大連っていうのは防衛大臣のようなものです。つまり、政治のトップである総理大臣と軍事のトップである防衛大臣が対立をしていくといったイメージですね。この勢力争いに関していえば、のちに蘇我馬子のころに蘇我氏が勢力を拡大していきます。たとえば、仏教を大陸から受け入れたり、あるいは渡来人と交流があったりなどしました。

 

継体天皇の時代

それでは、古墳時代後期まで進んでいた通史を進めていくことにしましょう。ここからはいつしか大王といわれていたのが、天皇といわれるようになります。昔、古墳時代応神天皇という天皇がいましたが、そこから仁徳天皇系で25代天皇武烈天皇で途絶えてしまいます。誰かいい後継者はいないかなぁということで探していたところ、そこに白羽の矢がたったのが、応神天皇から分かれた仁徳天皇系ではない方の系列から天皇血筋を引く人を探し出し、そして天皇にかつぎ上げたのでした。それが継体天皇です。天皇制をぐと書いて継体天皇ですので、「一度は途絶えた天皇であったが、途絶えた後を引き継いでくれる天皇が現れた!」といった思いがこの天皇の名前に反映されているとも考えられますよね。さぁ、この継体天皇の時代について詳しくみていくことにしましょう。

 

大伴金村の失脚

まず大伴氏が勢力を失うのがまさにこの時代にあたります。この大伴金村(おおとものかなむら)が失脚する原因となったのはなぜかというと、朝鮮半島の一番南に位置する加耶諸国の西部4県百済に勝手に譲ってしまったということが挙げられます。なんでそんなことしちゃったんでしょうね?それは、高句麗が南下して百済を圧迫し、同じく高句麗が圧迫し新羅も圧迫していましたので、このままではいずれ日本の勢力圏でもある加耶諸国も百済あるいは新羅に飲み込まれてしまうに違いない、そうした場合に百済はまだ日本と一番つながりのある国でもあったので、いっそのことこの加耶諸国の西部4県を百済に譲ってしまって、そこをしっかり百済に守ってもらおうと考えたのでした。はい、この戦略は間違ってはおらず問題はないのですが、実は大伴金村百済の側からワイロを受け取ったのではないかと激しく追及されるのですね。そして、この一件で大伴金村は非難を受け失脚してしまうのでした。

 

筑紫国磐井の乱

そして、この継体天皇の時代に起こったもう一つの出来事があります。それは、磐井という人物がヤマト政権に対して反乱を起こします。この磐井っていうのは、筑紫国造といって今の福岡県にあたる地域のリーダー的存在だったんですね。この頃、ヤマト政権は百済と太いパイプを持ちつつありました。しかし、九州北部では磐井という豪族が新羅と独自に密接な関係を持っていたわけですね。さぁ、このままではこの磐井はヤマト政権の中では立場が悪くなっていくことが想定されますよね。そこで磐井はいっそのこと新羅と結んでヤマト政権に対して反乱を起こしたのでした。いいですか?時の朝廷であるヤマト政権は百済と結びついている、しかしこのままではオレの立場がどんどん悪くなってしまうと考えた磐井は一発逆転を狙って時の朝廷であるヤマト政権に対して反乱を起こしたということです。ところが、ヤマト政権によって磐井は鎮圧されてしまいます。

 

鎮圧後、磐井を持っていた所領がごっそりと空白になりますよね。そこで、磐井の持っていたかつての筑紫国に、天皇が直接管理を行う直轄地として屯倉(みやけ)がおかれることになりました。この磐井の乱を鎮圧したことによって屯倉が置かれたっていう一連の流れは結構テストとかでも問われやすいので、流れを抑えておきましょう。

 

欽明天皇の時代

では、継体天皇の次の天皇である欽明天皇の時代についてみていくことにしましょう。この欽明天皇で抑えるべきポイントとして、のちに日本に大きな影響を与えるあの宗教、そう!仏教が欽明天皇のときに受け入れられたということです。百済聖明王(せいめいおう)という人から、仏像や経典をもらって仏教が伝えられました。この仏教伝来は何年だったのかということで2つの説があります。

538年説

上宮聖徳法王帝説」によると538年に仏教が伝来したのではないかとされています。

552年説

日本書紀」によると552年に仏教が伝来したのではないかともいわれています。

 

そうすると、新しい宗教だ!ということで受け入れるかどうかで対立が起こります。そりゃそうですよね、新興宗教ってどの時代も最初はいかがわしく思われるものです。いきなり仏像を拝め!ありがたいお姿じゃないか!と言われても、なかなか積極的に受け入れるには抵抗もあります。そこで、この仏教をありがたく受け入れようではないか!といったのが蘇我氏です。そして、受け入れない!といったのが物部氏です。

 

今回は、継体天皇欽明天皇の時代についてお話をしました。以上です。