093 田沼時代
享保の改革【吉宗⑧】
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寛政の改革【家斉⑪】
大御所時代【家斉⑪】
天保の改革【家慶⑫】
9代将軍・徳川家重の時代(吉宗⑧の政治の継承)
さて,記録によるとこの家重は,言語障害を持っていて将軍としての役目を果たすことができなかったとも言われています。ですので,吉宗政治を継承せざるを得なかったわけですね。
10代将軍・徳川家治の時代(老中 田沼意次の時代)
それでは田沼意次が行った政策をどんどん挙げていきたいと思います。
財政再建策
まずは幕府の財政再建策からみていくことにしますが,幕府はどのような財政再建策をとったのでしょうか。この時代,欲しいものはカネでかう世の中でした。しかし,それにもかかわらず収入源はコメ(年貢)に頼っていたわけです。そして,田沼意次以外の全員が,このコメ社会をなんとか立て直そうと一生懸命だったわけですね。だから,年貢をたくさん確保して商人に高い値段でかってもらおうと努力したわけですね,田沼以外は。しかし,田沼意次は今までの幕府の人たちとは考え方がちょっと違っていて,一歩先を行く政治家でした。というのも,カネ社会に着眼して,カネ社会からも取れるところがあればどんどん税金をとっていけばいいじゃないか,というものでした。だから,土地からの年貢収入だけに頼ることなく,民衆の経済活動とくにお金による活動からの収益も財源にしました。つまり,カネ社会に合わせた税のとり方をしようしたのですね。
株仲間の公認
たとえばどういう方法をとったのかというと,ここからは田沼の重要政策になるのですが,株仲間の公認ですね。商人や職人に積極的に株仲間を作らせ,「あなたたちにはこの町での鍛冶屋としての商売独占権を与えましょう」ということで,営業独占を認める代わりに利益の数パーセントを税として幕府に納めさせました。これを運上といいます。冥加というのもあって,これは現代でいう献金のようなものですね。
専売制度
幕府がどんどん流通を握って, たとえば銅や鉄,そして五円玉の素材にもなっている真鍮(しんちゅう),朝鮮人参などのつくらせて,その利益を幕府がせしめたのでした。
南鐐二朱銀
計数貨幣として8分の1の銀貨をつくらせました。今までの銀は秤量貨幣といって重さを図ってお金として払っていました。簡単にいえば,銀を切り取って必要な重さを払っていたのでした。そうすると手間がかかるわけですよね。量る人にも人件費がかかる。そこで,予め量り取った銀として二朱銀というものをつくって,価値を固定させておくといちいち重さを量らなくてもつかえるので,両替にかかる手間や銀をつかうことのコストを大幅に削減できたのでした。そうすると,もともと銀は計数貨幣だったから,これに金をあわせることによって貨幣制度が一本化されるメリットがうまれたのでした。
貿易の奨励
つづいて,田沼はもっとお金が欲しいなぁと思うわけで,貿易の奨励を行います。たとえば,日本が外国に売れるものは何かないかなって考えたときに,中国にたいして,銅や干し鮑やフカヒレなどを売ればお金になるではないかということで,銅・俵物の輸出促進が図られました。
新田開発
なんとかお金を得てやろうという政策だったのですが,もちろんコメがとれるのであればそれに越したことはないので,新田開発を奨励します。たとえば今の千葉県にあたる印旛沼・手賀沼など大規模な町人請負新田を奨励したのでした。
蝦夷地調査
このようにお金社会に目をつけて,そこから収入を得ていこうとするのが田沼時代の特徴です。それに関連するのですが,今度は蝦夷調査も行います。工藤平助という人物がいて,「赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)」という書物を遺しています。赤蝦夷というのは北海道の海を挟んで向こう側にいるロシア人のことを指すのですが,そんな海の向こうに赤蝦夷たちがいっぱい入るのだったら,彼らに取られる前にこちら側で開発してしまわないといけないですよね。今まで北海道開発はそこまで急ぐ必要はなかったのですが,赤蝦夷の存在を知ってしまった今,ぼーっとしてられないということで蝦夷地の開発を手がけたのでした。さしあたって,蝦夷地を調査しないといけないということで,最上徳内という人物が派遣されました。
朝廷内部での出来事
竹内式部や復古派公家が追放されるという宝暦事件が起こりました。彼らはどういう性格の連中かというと,幕府に対してちょっと不満のある人たちです。竹内式部は学者であり,そもそも天皇っていうのは将軍に権力をお授けになられた方という考えの持ち主です。だから,幕府のことをあまり良くは思っていないんですね。すぐに幕府から権力を取り上げて朝廷の世の中にしようといったほどではないのですが,尊王論がふつふつと湧き上がっていくと,竹内と同じ朝廷側の中にも「そんなことを教えたりそんな考えを持っていたら幕府ににらまれてしまうのでは?」と危惧する者もあらわれて,朝廷側の人間が竹内式部らを追放してしまおうとする内紛も田沼の時代に怒ったのでした。
田沼政治の終焉
では,ラストの話題に入りましょう。まずは株仲間の弊害が出てきたというのが田沼政治の終焉の一因となりました。株仲間というのは,この町ではこの商品しか扱ってはいけませんよというルールでしたね。そしたらAというグループが独占していたのですが,今度は私達Bグループ方に独占権を与えてくださいなっていうお願いをしに田沼のところを訪れる商人があらわれました。しかし,ただお願いするだけではなかなか動いてくれないから,「ほんの気持ちでございます」といいながら小判を包んで田沼にわたすわけですね。つまりワイロです。ワイロを渡して独占権を得ようとする行為が横行したのでした。だからBグループばかりが利益を独占するようになって他の商人らが不満をもつようになります。それが,幕府の役人にも飛び火して,商人がつまり幕府の役人にワイロを渡すようになると,ワイロ文化が商人の間で,そして幕府の役人の間でも広がっていき,社会全体がワイロ漬けになったのでした。ただ,田沼意次の代わりに言い訳をするならば,田沼意次はコメ社会からカネ社会へ,コメだけでなくお金にも重要性があるよっていうことに気づいたわけですよね。田沼はそこにいち早く気づいたわけで,お金をどんどん生み出させて,そこから税を徴収しようとしたのが田沼が初めてだったので,そこから田沼はカネに汚い政治家だ,だから世の中くさっていったのだと噂されるようになり,悪い評判が先立つのでした。おそらくワイロは田沼時代よりも前にもあったはずですが,田沼はカネ社会を大切にしたから田沼の時代はカネに汚いんだっていうイメージがついちゃったのでしょう。
そして,運もありませんでした。天明の飢饉です。浅間山が大噴火して,火山灰が日光を遮って作物が不作になってしまったので,苦しんだ農民たちによって百姓一揆や打ちこわしに向かっていくのでした。これは田沼にしてみればどうしようもありません。そして,若年寄だった田沼の子である田沼意知(おきとも)が殺されるわけですね。そうした政治の混乱がありながら,将軍家治の死により田沼意次が老中を降ろされるというので,これにて田沼政治の終焉となります。
田沼意次,コメ社会からカネ社会へということに気づき誰よりも早くシフトさせようとするのですが,世の中まだまだコメ社会で,幕府の中でもかなり異色の存在だったんですね,だからこそカネに汚いという噂が流れ,結局田沼意次が老中を降ろされることに成り,幕府は再びコメ社会へと引き戻そうとするのでした。