日本史オンライン講義録

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004 弥生人の生活

今回から弥生時代へと入っていきます。いきなりですが「弥生時代といえば?」の問いに対してみなさんならどう答えますか?「弥生時代?簡単だよー!弥生時代は稲作が始まったんだよ!弥生時代は稲作だぜ!」って答えると思います。これは間違いではありません。しかし、その弥生時代の始まるチョイ前(縄文時代末期)あたりから、だんだんと稲作が始まっていくのですね。そして、ある程度稲作が広まって、すっかり時代は変わってしまったねーっていう時代を弥生時代といいます。ですので、稲作は縄文時代の晩期ごろに九州北部で水田耕作(水稲)が開始され、稲作が普及したのが弥生時代であるということになります。

 

水田耕作の開始 

弥生時代稲作は,前期・中期・後期とありますけど。大雑把に前半・後半というぐらいの分け方でも構いません。大切なのはどう変わったのかってことです。まず田んぼなんですが,湿田から乾田へというような形態に変わっていきました。湿田から乾田ね!で,これ一体何なのか?と言うと,米作りって大量の水を必要とするじゃないですか?その水が,現代のように水道の蛇口ひねったら出てくるっていう時代じゃありません。なので,川から水を持ってくるんですね。そんな設備のことを灌漑設備と言います。でも,弥生時代の最初からそのようなたいそうな感慨設備がありませんから,最初は低湿地,つまりべちゃべちゃした沼地みたいなところの水を使って稲作を行っていたんだね。それが,徐々に発展していって川の水を流し入れて,必要ない時は水門をカシャって閉めて水が入ってこないようにしたのでした。これがめちゃめちゃ効率が良くって,作物も育ちが良いんですね。

 

さあ,どんどん行きます。やがて,田んぼを耕すのですが,耕す道具はというと木製農具から鉄製農具に変わっていきました。鉄製と言っても,この時代は,先っぽにちょっと鉄をはめただけのものでして,根本から先っぽまで全部鉄でできていたかというとそうでもありません。他にも田下駄などが使われていました。田んぼの表面をならす田下駄は,足が沈まないように履くアレね。

 

そもそも米作りのスタートといえば,籾(もみ)を巻くよね?これは最初,直播きといってパラパラまいて行くのですが,のちに一本植えていく田植えという風に変わっていきます。そして,収穫するときには石包丁で穂首刈りをするんですね。稲穂の首の部分に刃をあてて刈り取っていく収穫していきます。これが,やがては鉄鎌で根刈りという方法で効率が良く収穫していくスタイルに変わっていったのです。

 

さて,ポイントとしては縄文時代から使われ始めています,先っぽを尖らした磨製石器ですが,この弥生文化の時代にも磨製石器は使われていたということを抑えておきましょう!!

 

後は,脱穀です。脱穀には,木臼・竪杵を使います。餅つきで使う道具をイメージしてもらえればいいかと思います。そして,稲から米の部分を取り出した後にしっかり貯蔵します。何と言っても米は保存がききますからね。そこで,高床(式)倉庫の登場です。特徴は,一階部分の床があげられているので,貯蔵されている米をネズミや害虫から守るのに効果的でした。もう一つは湿気対策ですね。どうしても一階部分地面に近い部分は湿気てしまうんだよね。

 

では最後に水田の代表的な遺跡がいくつかあるので紹介しておきます。まず1つ目は、佐賀県菜畑遺跡ですね。そして、福岡県の板付遺跡が挙げられます。

 

青銅器

金属器の中でも鉄器はさっき農業のところで出てきました。鉄器はとても実用品だったのに対し,お祭りのアイテムとして使われる青銅器という金属器をみていくことにしましょう。青銅というのは,銅とすずを混ぜ合わせたものです。たとえば,銅鐸以外に銅剣銅矛・銅戈などがあります。銅鐸なんですが,これはカンカンカンって音を鳴らして使っていたことは分かっているのですが,その音を鳴らした以上に何に使ったか?はいろいろ説があるのでこれって言うに決まった用途があるわけではなさそうです。で,大事なのは,この銅鐸が今の近畿地方に多く分布していたということをインプットしておきましょう。次に,銅矛・銅戈ですが,これは九州北部とか瀬戸内海とか中心に分布しています。最後に,銅剣(平型銅剣)ですが,これは占いや呪いとかに使ったとも言われますが,表側は模様がついていて裏側がまっ平らになっていて,ぱっと見たら自分の顔が映るような形をしています。主に瀬戸内海に分布しています。

 

弥生文化の成立

さて、弥生文化なのですが、西日本で始まり、東日本に広まっていきます。なぜなら、この弥生文化のベースになっているものが水稲耕作で、そもそも水稲耕作は大陸あるいは朝鮮半島から伝わり、それが九州北部に根付いて、それがだんだん東日本に伝わっていくというのが弥生文化の広がりの一つです。しかし、稲作をやっていない地域が2つあるのですが、一つは北海道ですね。そして、もう一つは沖縄(南西諸島)は除きます。理由としては、「北海道」は稲作には適さない気候地域としてがあげられますし、「沖縄(南西諸島)」はそもそも稲作をしなくても食料が安定的に確保できたっていうこともいえるんじゃないかと思います。このように西日本や東日本では弥生時代と読んでいたその裏側で、稲作ではなく狩猟・採集を引き続き行っていた北海道の文化のことを縄文文化、そして沖縄を中心とする南西諸島の文化を貝塚文化と呼んでいます。

 

弥生文化の特徴

ともあれ、この北海道と沖縄を除く日本は、農耕を行い弥生文化と呼ばれる対象エリアであったわけです。では、何をもって弥生文化というのでしょうか。これは水稲耕作をベースとする食糧の生産段階へと入った時代の文化だといえます。それまで縄文時代では、狩猟・採集といったモノを獲得をしていましたが、モノを植えて増やして生産するといった点が弥生文化の特徴といえます。あるいは、青銅などを用いた金属器を使用したり、機織り技術など新しい技術をともないました。機織りっていうのは、タテ糸とヨコ糸を通して織っていく技術です。また、赤褐色の土器である弥生土器を使用ていました。

弥生土器の特徴

そしたら、ここでもう一つ、弥生土器とは何ぞやっていうお話をしたいと思います。そもそも弥生土器の弥生って何かというと、東京の本郷弥生町で発見されました。今では東京大学のキャンパスの中に弥生町があります。弥生町で発見されたから弥生土器っていうわけですね。まず、赤い素焼きであって、縄文土器に比べると高温で焼かれ、薄手です。もっと高温で焼かれてもっと薄手な土器がこのあと登場してくるのですが、ここではあくまでも縄文土器と比べたときのお話です。

 

弥生土器の種類

どんな種類の弥生土器がでてきたかというと、煮炊き用の「甕(かめ)」、貯蔵用の「」、そして食物を盛る「高坏(たかつき)」などがあります。

 

 

縄文文化との関連

金属器や稲作は大陸文化が伝わった「新しさ」がみられますが、暮らしそのもの(打製石器、竪穴住居など)は、縄文文化を引き継ぐことになります。

 

まとめ

これまでみてきた弥生時代ですが、この時代は、大陸や朝鮮半島から金属器あるいは稲作っていうテクノロジーの要素がみられるようになってきました。しかし、その裏側で人々の生活そのものはまだ打製石器の使用がさかんに見られたりしました。やっぱり割れば切れ味のイイ打製石器っていうのは便利なものなんですよね。あるいは竪穴住居に住んでいたりといったように、暮らしそのものは縄文時代を引き継ぐといったイメージです。全部稲作をやっているかというとそうでもなくて、狩猟・採集もさかんに行っており、このように縄文文化をベースとして、そこに新しいテクノロジーに乗っかっったのが弥生文化であると捕らえましょう。