日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

005 小国の分立/邪馬台国連合

前回は弥生時代前期のお話をしましたね。今回は弥生時代中期のお話をします。中期になってくると、稲作ができるようになって、みんながお腹いっぱいに食べられるようになった。食事の心配をあまりしなくてならないようになった。そのことが、悲しいかな争いの時代へと世の中を突入させていくことになります。なんでお腹いっぱいに食えるようになると、戦いの時代に入るねん!ってツッコミが入りそうですが、よく考えてみてください。全員がコメを食い切ってしまえば別に問題はないのですが、食いきれなくなった場合、コメはどうなりますか?捨てますか?そんなもったいないことしないでしょ?そう!余ったコメは保存しておこうってなるのが自然ですよね。しかし、隣の村では不作でコメもろくに食えない状態だったとします。そしたら「そのコメをよこせ!余ってるんならいいだろ!」「いやだ!誰がやるもんか。このコメは不作になったときのために保存してるんだ!」ってな感じで争いが勃発するんですね。だから余剰生産物っていうのは争いの元になるのです。

防御的施設

悲しいかな、歴史の発展というのは案外こういうものの連続で、武器や防御的施設が必要になるわけですね。隣の村の食料を奪ってやろう!いやいや奪われてたまるものか!ってことで、生産手段の進歩が「余剰」を生み出して、その「余剰」を巡って争いが起こり、武器など金属の使用、そして防御的施設などの土木技術がどんどんとまた進歩していくということになります。

環濠集落

こういう防御的施設の中で弥生時代に有名なのが環濠集落(かんごうしゅうらく)です。

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環濠集落とは、家々の集落の周りにお濠を掘って敵の侵略を防ぐというような防御施設のことをいいます。で、この環濠集落の代表的な遺跡として、吉野ケ里遺跡(佐賀県がテストでもよく出題されますので是非抑えておきましょう。いま吉野ケ里にいくと、遺跡ゾーンと公園ゾーンに分かれていて、公園ゾーンは小さな子供たちがキャッキャ言って遊べるようになっているのですが、そういった公園ゾーンとはまた別に史跡ゾーンがあって、そこではこの環濠集落の様子が分かりますし、復元された竪穴住居の中に入ることもできます。近くに寄った際には是非お立ち寄りを。

高地性集落

他にも高地性集落といった防御的施設もありました。これは、敵に襲われたときに低地から山に逃げ込んでしばらくしたらやり過ごして下山するといったように、いわゆるにげ城的性格をもったものです。なので、争いがあったということがこの高地性集落の存在で証明できることになります。こうした高地性集落の代表的な遺跡として、紫雲出山(しうでやま)遺跡(香川県が挙げられます。

 

クニの分立

さて、このようにたらふく食わんがために、技術が発展し、人を食わせることができるようになったものの、食べられる分以上の余剰生産物が発生したために、争いが起こってしまったということでした。そうしていくと、利害を一緒にする集落同士が連合して、次第に集落を統合した政治的なまとまりである「クニ」が分立するようになり、その「クニ」の王が出現しはじめることになります。隣の村とこちらの村が毎回毎回争って食料の取り合いをしても仕方ないですよね?そこで、ある程度我々は協力していかないか?ということで同盟を結びはじめます。我々は一緒に食料を生産していこう、しかし向こうの山の奴らは敵だとみなし、こっちでコメで取れない時は、あっちのコメを奪おうなっていう風に連合したほうがいろいろと都合がいいわけですね。そして、その中である程度のリーダーシップを発揮する奴が現れてやがて王が誕生するのでした。

 

ここからは弥生時代中期となります。では少し弥生時代の世界の中へ入っていきましょう。

漢書地理志の時代

先生!漢書地理志って何ですか?っていう質問がでてきそうですね。はい、漢書地理志っていうのは中国の本です。しかも、中国の歴史の本です。この時代、まだ日本には文字が伝わっていません。なので、この時代の日本の歴史を知るにはどうしたらいいかというと、中国の歴史の本の中に日本のことがちょこっと少し書かれているコーナーがあるんですね。そうしたチョイ役として登場する日本のことが紹介されている歴史書のことを漢書」地理志(かんじょちりし)っていいます。

そこで初めて我が国が当時中国から「倭(わ)」って呼ばれていたことがわかったのです。当時、我が国にはまだ文字がないから、自分たちの国のことを何と言っていたのかわかりませんが、中国からみたら少なくとも我が国のことを「倭」って言っていたのですね。それにしても酷い名前を付けてくれたもんです。そもそも中国王朝っていうのは自分らが一番エライと思っているので、周辺の国々に変なあだ名をつけるわけですね。たとえば、匈奴(どれいのような奴)とか鮮卑(あざやかにいやしいやつ)とか、羯(かつ=羊人間)とか、そして倭(チビ)とかのあだ名を付けていたようです。

夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。

このように、漢書地理志の中の地理コーナーでは、いくつもの周辺国の様子が書かれているのですが、その中で倭っていうコーナーがちょっとだけあって、そこに東の方に倭っていう国があって、そこは100あまりに国に分かれていたんだよ、そして前漢という王朝が朝鮮半島に置いた楽浪郡(らくろうぐん)に定期的に使者を送っていたんだよ、ってことが中国の歴史書にかかれていたのでした。

かなり具体的な内容になってきましたよね。今までは土器や石器から当時の生活の様子を推測するしかなかったのに、中国の歴史の本の中にちょっと日本のことが書かれていることに寄って、倭といわれていた、100あまりの国にわかれていた、そして楽浪郡という中国王朝が作った郡に毎年定期的に使者を送っていた、ということが確実にわかるようになったのでした。

後漢書東夷伝の時代

次に後漢書東夷伝という中国の書物の中に日本がちょい役として登場します。東夷伝っていうのは東の野蛮人たちっていう意味があります。中国の歴史を書いている中で、ちょっとここでコーナーを設けて東の野蛮人たちについて書いておこうってなったのでしょう。

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倭の奴国(なこく)っていう国の王様が、後漢の都・洛陽に行って貢物をもってきたよ、そしてそのお返しとして後漢の皇帝である光武帝(こうぶてい)が奴国の王に印綬を授けましたよってことが書いてあります。日本は今までたくさんの国に分かれていましたが、その中のある国が中国に使者を送りました。すると中国の王様から「よしよし、じゃあオマエを数ある中から日本の王様として認めようではないか!」となるわけですね。すると日本の中での立場が上がるわけなんですよね。「オレ、中国公認の王だけど、あんたたちは?」っていうことが出来るわけですね。わかります?日本にたくさんある国の中からまっ先に中国に出向いて、たくさんの貢物を持っていって、中国の王様から「あなたが日本の王様!」として認められれば、帰国したら日本ではハクが付くわけですね。このように、貢物を送り、臣下の礼をとることを朝貢するといい、日本の中での立場を上げるために行われたのでした。

 

この倭の奴国の王様がもらった印鑑はとても有名な印鑑で、福岡県志賀島で江戸時代に発掘されたのですが、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と書かれてあります。「あなたは、われわれ漢が認めた日本の奴国王である」という意味ですね。もらった方は「へへっ、オレ中国公認の王様!」って言えるわけです。これは国宝となっており、いわゆる金印と呼ばれています。

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江戸時代に土を耕していた最中に農民が偶然見つけられた金印なのですが、私は福岡に行ったときに福岡市博物館でホンモノを見たことがあります。とにかくピッカピカ!めちゃくちゃ綺麗でした。やっぱり金っていうのは、我々が想像する以上に光輝いていて人を魅了します。

 

そして、もう一つこの後漢書東夷伝にかかれていることを紹介しましょう。ここに一人の人物が登場します。その名は帥升(すいしょう)です。我が国で文字として残る名前を持つ最も古い日本人です。名前の分かっている歴史上の日本人で一番古い存在なので、われわれからすればもう大先輩ですよね。この帥升さん、何をやったのでしょうか?大先輩なので、きっとイイことをしたんだろうなぁって思いたいところなのですが、実はサイテーなことをしています。それは生口(せいこう)160人中国の皇帝にプレゼントしたって書かれています。生口をプレゼントってどういうことかというと、奴隷を献上したってことです。名前の分かっている中での大センパイ!何やってんだよ―奴隷を捧げたってサイテーじゃん!ってな感じですよね。

 

さて、ここまで弥生時代中期のお話をしてきました。中期っていうのはクニがたくさん分かれてきて争いが起こるようになったよっていうことでした。その中で、国内で主導権を握るために、中国の王様に使いを送って貢物をする王様も日本に現れました。そのことが、中国の歴史の本にチョイチョイ書かれてあって、そのことによって当時の我が国の様子や、我が国が中国から何と呼ばれていたのか、あるいは奴国っていう国があってね、そして帥升っていう人物がいてね、っていう風に具体的なことまで分かるようになってきたのでした。それではここからは、弥生時代がまた進んで、今度は中国の歴史書の中でちょい役としてではなく、我が国を紹介するコーナーとしてわざわざ設けて書いてくれたってことをお話していきたいと思います。

 

弥生時代後期〜邪馬台国の時代

さて、ここからは弥生時代後期です。邪馬台国の時代なのですが、この邪馬台国を知ることができる手がかりが魏志倭人です。「漢書」地理志や「後漢書東夷伝では、地理本の中のほんのちょい役として日本が紹介されていたのですが、今回はついにチョイ役ではなく主役のコーナーとして1コ設けられたのが「魏志倭人伝なのです。魏志というのは、三国時代である魏・呉・蜀のうちの一つである魏の国のことです。

魏志倭人

中国王朝では後漢が滅亡し、いわゆる三国志の時代へと突入します。10年前にレッドクリフという映画がありましたが、その中でも登場しました曹操の国である魏・劉備の国である蜀、孫権の国である呉なわけですが、その中でも魏の国の歴史を書いた本の中で日本のことについて書かれた1つのコーナーのことが魏志倭人なのです。かつて中国王朝が漢のときに朝鮮半島に設置した出先機関である楽浪郡も、魏の時代になると魏のときに設置した帯方郡へと改編しました。

この「魏志倭人伝を読み進めていくと、あの東の海に浮かぶチビどもの国・倭国に大乱があった、と書かれています。そして、そこには邪馬台国が成立したとも書かれています。それは、30ばかりの小さな国が連合して一つの国家となり、この中の王様として卑弥呼が存在していました。この卑弥呼さん、何をやったのかというと、中国王朝である魏の国に使いを送っています。そのときに中国王朝の魏からは、「親魏倭王」といって、魏と親しくする倭の王様といった意味の称号と銅鏡(三角縁神獣鏡)100枚を授かっています。1枚や2枚ではなく、100枚というまとまった数の銅鏡ですので、卑弥呼さんのお墓ではないかな?と思ったときにそこからたくさんの銅鏡が出土されれば、それはおそらく卑弥呼のお墓として確定的となりますよね。

 

さて、卑弥呼のやったこととして、もう一つ挙げるとするならば、呪術的権威を背景とした政治「鬼道(きどう)」を行ったと言われています。鬼道って何かというと、神がかりになることによって、神が乗り移って、身も心もある意味狂ったようなイっちゃってる状態で神を降ろして、その宗教的権威で国をまとめるといった政治のことです。最近では、卑弥呼など神にお仕えする巫女たちは、頭の前と後ろをベニヤ板みたいなもので強く力を加えて、わざと脳に障害を負わせて、そして神がかり的な状態にするといった風習もあると最近の研究では言われています。卑弥呼の頭は少し前後に潰されたような状態であったことでしょう。

 

さらに、「魏志倭人伝をみていきましょう。ここで、邪馬台国を少し散策してみましょう。そうすると、身分差があるということが分かりました。の下に大人(たいじん)、大人の下に下戸(げこ)という身分がありました。さて、そうして卑弥呼に死が訪れます。邪馬台国は、狗奴国というクニと争い、その内に卑弥呼は死去してしまいます。邪馬台国というクニは女性と相性がよいのでしょうか、男の王が治めようとしても国内が混乱してなかなか邪馬台国が治まらないわけです。そこで、やはり男性の王よりも女性の王だということで、やがて壱与(いよ)が女王としてたてられると、国内は再び治まるようになりました。そしてココまで来ると、もう中国王朝はが滅び、という王朝へ変わっていますので、壱与はこの晋に使者を送っています。ちなみに使者を送ったということでいえば、卑弥呼のときにも魏の使者を送っていて、この人の名前を難升米(なしめ)といいます。

 

近畿説と九州説

歴史マニアの心を揺さぶっている問題の1つが「邪馬台国は果たしてどこにあるのか?」ということです。邪馬台国の所在地は現在のところハッキリしていないのですが、近畿説九州説があります。近畿説だったらわりと邪馬台国というのは大きく広域な国家だということが推定されますし、九州説だったら比較的まだ小規模なクニだったと推定できるわけです。私個人的にはどっちでもいいじゃん!って思っています。邪馬台国の所在地がハッキリしないからこそ、ドキドキ感ワクワク感がいつまでも楽しめるわけですし、永久に論争し合うことに面白さがあるのではないかと思っています。そういった最中に、三角縁神獣鏡が見つかったりして近畿説に傾いたり九州説に傾いたりするそのプロセスが歴史好きにはたまらないんですよね。はい、それでは今回はココまでです。