日本史オンライン講義録

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006 古墳の出現とヤマト政権

縄文時代弥生時代ときましたが、その次は古墳時代を扱っていきたいと思います。古墳時代ってどんな時代?そう!ヤマト政権が成立し、その後飛鳥時代とか奈良時代へとつながっていく時代といえます。今回から、古墳時代に入りますので、そんな古墳の出現とヤマト政権についてお話をしていきます。

 

古墳の出現

古墳といえば、前方後円墳で、大阪にある大仙陵古墳なんかが有名ですね。ところで、この古墳というのはどういったところからスタートしたのでしょうか。弥生時代の後半くらいになってくると、たくさんの国々がまとまって大きな国家を形成したのでしたね。大きな国家を形成すると、それなりの権力をもったリーダーが現れるわけですので、お墓のスタイルも墳丘になっていくのでした。ですので、古墳出現期の特徴としては、西日本中心前方後円墳が多く見られるようになります。また、長い木簡を竪穴式石室におさめた埋葬施設もみられるようになります。要するに、墳丘に竪に穴を掘って、お棺を入れてその上から土で埋めてしまうやり方です。当然、土を入れてしまうわけですので追葬することはできません。つまり、1人の権力者に対して1つのお墓ってですね。これが出現期の特色です。このお墓には死んだ人が埋葬されるのですが、いっしょに銅鏡などが副葬されたりもします。たとえば弥生時代であれば卑弥呼のようなリーダーは、呪術的な力を用いて国を治めていました。太陽の光を閉じ込めることができるとされるピカピカに光った鏡は呪術的アイテムとして副葬され、お墓の性格も呪術者としての色を帯びてくるのでした。この出現期の代表的な遺跡として、箸墓古墳奈良県)が挙げられます。弥生時代の後期に作られた古墳であることから考えると、この箸墓古墳はどうやらあの卑弥呼の墓ではないか?と推定されています。

 

政治連合の形成

古墳の分布をしらべてみると、まず古墳時代の前期には、大和(今の奈良県)地方に大規模な古墳が集中していることから、ヤマト政権といわれる一つの政治連合があったのではないかといえます。では、4世紀中頃に東北地方中部までヤマト政権の支配拡大したとされる古墳時代前期のお話を進めます。

 

古墳時代前期

さて、古墳時代の前期になると墳形が大規模な前方後円墳、あるいは前方後方墳、あるいは数多くの円墳・方墳が登場するのですが、ヤマト政権の時代が古墳時代にあたるとするなら、おそらくヤマト政権の権力者のお墓ではないかと推測することができます。形状はどんなものかというと、古墳の盛り上がった墳丘の上に埴輪(はにわ)を並べ、古墳の斜面は石で覆われた葺石(ふきいし)がみられます。棺を修める部屋のことを郭(かく)と言ったりするのですが、棺を粘土でおおう粘土槨にすることによって、雨水の侵入とかを防ぐことができるのです。さらに古墳時代の古墳の特徴として副葬品には、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)をはじめとする銅鏡などがみられます。鏡というのは宗教色の濃いアイテムであり、こうして副葬品には呪術的・宗教的色彩が強くみられます。

 

今回は古墳時代中期のお話をしようと思います。

 

古墳時代中期(4〜5世紀)

この古墳時代中期ですが、中期といえばイメージとしては時代のピークであると想像できますね。ですので、古墳の規模も大規模な前方後円墳が作られるようになります。なぜなら、ヤマト政権の盟主である大王(おおきみ)のお墓だからです。たとえば、大仙陵古墳大仙陵古墳ですね。これは定かではありませんが一仁徳天皇陵とも言われています。ほかにも、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳なんかが有名です。応神天皇陵とも言われています。いずれも大阪府にあります。

 

古墳の変化

さて、この古墳の在り方も少しずつ変化をしていきます。たとえば、古墳前期には縦に穴を掘ってお棺を置いてその上から土をかぶせる竪穴式石室がみられましたが、古墳中期以降になると、横に穴をほって入り口を塞いであとから2個目、3個目のお棺を追葬できる横穴式石室が徐々に登場してくるようになります。また、地方の権力者もこれを真似るようになっていきます。たとえば、岡山県造山(つくりやま)古墳などがみられるようになります。

高句麗好太王碑」

また、古墳時代中期の我が国のことを知るもう一つの手がかりがあります。それはなにかというと、この時代日本にはまだ文字がありませんので、当時の日本を知る手がかりとして、海外おもに中国の史料によって知ることができ、その史料として高句麗好太王碑文(こうくりこうたいおうひぶん)が挙げられます。これまでにも「漢書地理志」とか「後漢書東夷伝」「魏志倭人伝」のお話をしましたね。これらのような史料の中に日本のことがチョイ役として登場してきましたが、この高句麗好太王碑文というのは朝鮮半島の北部(今でいう北朝鮮よりも北の付近)に建てられている石碑に日本のことが書かれているのです。その内容はというと、倭が高句麗朝鮮半島北部の国家)と交戦した記録がのこされています。なのでこの時代にはすでに、ヤマト政権はある程度の実力を持っていて、朝鮮半島の国と戦うまでのレベルに達していたということが示されています。また、騎馬技術も習得していたのではないかと推測されています。

 

宋書倭国

この宋書倭国伝には日本のことがどのように書かれているかというと、まず倭の五王といわれる5人の王様が中国の南朝朝貢したということが書かれています。朝鮮半島南部での日本の立場を有利にするため、やはり日本は朝鮮半島に勢力を得ようとしているのが「高句麗好太王碑」でも分かりましたが、「宋書倭国伝でも中国の王朝と友好関係を築いておこうとする動きがみられます。ところで、5人の王様って誰やねんっていった感じなのですが、「讃さん、珍さん、済さん、興さん、武さん」の5人であるということが示されています。この中でも「武」王は、雄略天皇ではないかと言われています。この雄略天皇にはワカタケルという別の名前もあります。この人に関してはまた後ほど詳しくお話をします。

 

今回は、古墳時代中期のあらましを紹介しました。この時代のことを知る手がかりとして、中国や朝鮮半島の史料に日本のことがチョイ役として書かれているので、文字のない時代の我が国の歴史を知ることができるのです。今回はここまでです。