日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

007 古墳時代の東アジア/大陸文化の受容

ここでは、古墳時代前期〜中期頃の日本を取り巻く東アジア情勢について見ていきたいと思います。

 

古墳時代の東アジア世界

まず各国がどのような時代であるのか確認をしていきます。中国からみていきましょう。この中国なのですが、南北朝時代という時代です。そして朝鮮半島はというと、この時代4つの地域に分裂をしています。

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朝鮮半島の北部の国を高句麗といいます。この高句麗はもう少し北方に位置していたのですが、次第に南下政策をとり、中国王朝が出先機関として置いていた郡である楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。そして、南部の3地域についてもみていきましょう。まず朝鮮半島西部を馬韓(ばかん)地域というのですが、ここに百済(くだら)という国が起こりました。次に朝鮮半島東部を辰韓(しんらん)地域というのですが、ここに新羅(しらぎ)が起こりました。そして、南部は弁韓(べんかん)地域といって、ここには統一した国は起こらず加耶(かや)諸国といい、ヤマト政権は密接な関わりを持ち、朝鮮半島の支配を狙っていました。

 

ここでは地域名と統一した国をセットで抑えておきましょう。

SHINKAN(辰韓)で、新羅SHIRAGI)が起こった 。

いやぁ〜ん、ばかん馬韓)!ねぇ?くだら百済)んでしょ?

 Sつながりで,辰韓新羅

バカな冗談はくだらんので,馬韓百済

ちょっと強引すぎました(笑)

ヤマト政権の朝鮮進出

高句麗好太王碑文

日本はまだこの頃文字は使っていませんでした。しかし、日本のことがなぜ今こうして分かっているのかと言うと、それは朝鮮半島の支配を狙って南下してきた高句麗の王様(好太王)のお墓の墓石に日本と交戦したことが刻まれてあるからなんです。この碑文のことを高句麗好太王碑文といいます。この高句麗と日本との交戦なのですが、当時日本は百済と連合していたってことも記録されています。

宋書倭国

中国の南朝朝貢してきたことを示しているのが「宋書倭国です。ヤマト政権としての狙いはやはり朝鮮半島です。朝鮮半島諸国に対して,軍事・外交的に有利な立場を得ようとするために、貢物を差し上げることで中国王朝の王様に認めてもらい、自国で「オレは中国王朝とこんだけ仲がいいんだぜ!」という風に立場を有利にするため、いろいろな自分たちの業績を中国王朝に売り込んで仲良くやりましょうと絆を深めるために海を渡りました。とくに、倭王雄略天皇)が朝鮮半島進出を狙っていたということを伺わせる記録がこの「宋書倭国伝に記されています。

 

今回は、古墳時代の東アジアの情勢についてお話をしました。このあとは、この東アジアとくに朝鮮半島から日本に渡ってきた渡来人についてみていきたいと思います。

 

大陸文化の受容

渡来人

主として、朝鮮半島から技術を伝えた人々のことをご存知、渡来人といいましたね。渡来人には名もなき渡来人もいれば、名の通った渡来人もいるわけですが、ここでは伝説的な3人の渡来人を紹介しましょう。

王仁(わに)・・・文字を伝えた西文氏(かわちのふみうじ)の祖先

阿知使主(あちのおみ)・・・東漢氏(やまとのあやうじ)の祖先

弓月君(ゆげつのきみ)・・・はた織りを伝えた秦氏(はたうじ)の祖先

入試では,3対3の組み合わせを正誤判断する問題がよく出ます。覚え方という覚え方はないのですが,王仁の読み方が「わに」で,西文氏の西を訓読みすれば「にし」ですから,「わに」→「にし」としりとり感覚で覚えるのはいかがでしょうか?阿知使主の最初の文字「阿」を音読みすれば「あ」ですね。東漢氏も最初の文字「東」を今度も訓読みすればあずまの「あ」ですね。ということで「あ」「あ」つながりで覚えるのはいかがでしょう?最後に弓月君ですが,弓をひくときに,胸を「は」りますよね。はい,ということで秦氏の「は」と関連させて「は」「は」つながりで覚えてしまいましょう。

 

以上、伝説的渡来人の話でしたが、次にどういった技術が日本に伝えられたのでしょうか。それは、鉄器を伝えた集団り、そこから学んで鉄を作り出した集団を韓鍛冶部(からかぬちべ)として組織されていくわけです。また、陶器(焼き物)作りを伝えた集団を陶作部(すえつくりべ)として組織されました。そして、機織りを伝えた集団のことを織部(にしこりべ)として組織されました。そうすると、あのアスリートのことが思い浮かんだでしょ?エアーKで有名な世界的テニスプレーヤーである錦織圭くんですね。彼の錦織っていう苗字はたぶん錦織部が起源なのだと思います。金属工芸を伝えた集団を鞍作部(くらつくりべ)として組織されました。このように伝説的渡来人が技術を伝え、その技術として鉄器やら陶器作りやら機織りやら金工を伝えたとされています。

 

では王仁さんが伝えたものは何ですか?そうですね、文字を伝えました。この文字が伝わったっていうことは日本にとってもかなり大きな出来事といえます。まず日本人が着目したのは、漢字というもので記録ができることでした。そして、漢字には一文字一文字に音があって、この音を今までは話し言葉だけだった日本語に当てはめて、人名とか地名を表現していきました。このように、漢字を伝えた集団のことを史部(ふひとべ)といいます。すると、その漢字を実際に使ってみようということで、漢字の使用例として代表的なのは、埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳鉄剣で、この鉄剣は錆びついた銅剣に何やら金で文字が掘られているんですね。鉄はサビでボロボロになるのですが、掘って鉄に溝を付けて金をそれで埋めていくといった形で漢字が使われていたとされます。そして、その鉄剣には「獲加多支鹵(わかたける」という文字が刻まれており、この「獲加多支鹵」という人物は、雄略天皇とされる名が書かれています。これが最も古い漢字の使用例の一つです。

 

では文字が伝わったあと、その他にも物事の考え方や学問が伝わりました。たとえば、儒教といって、上下関係に基づく秩序をめざすものの考え方です。この儒教はどういった人たちに伝えられたかというと、朝鮮半島百済から渡来した五経博士(ごきょうはかせ)という人たちが日本の欽明天皇に伝えました。そして儒教にならぶ心の拠り所として、また個々人の悟りをめざす仏教も伝わりました。もともと仏教を伝えたのは百済聖明王の時代で、そして日本では欽明天皇の時代となります。この仏教伝来は何年だったのかということで2つの説があります。

538年説

上宮聖徳法王帝説」によると538年に仏教が伝来したのではないかとされています。

552年説

日本書紀」によると552年に仏教が伝来したのではないかともいわれています。

 

「日本史」の始まり

今まではずっと中国の歴史の中にかかれてある日本の記述がありましたが、ちょうどこの時期あたりから日本人が日本の歴史を書くということになりました。それは具体的には、「帝紀」(大王の系譜)や「旧辞」(朝廷の伝承)がまとめられ、「古事記」「に日本書紀」の元になっています。