日本史オンライン講義録

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008 古墳時代中期

今回は古墳時代中期のお話をしようと思います。

 

古墳時代中期(4〜5世紀)

この古墳時代中期ですが、中期といえばイメージとしては時代のピークであると想像できますね。ですので、古墳の規模も大規模な前方後円墳が作られるようになります。なぜなら、ヤマト政権の盟主である大王(おおきみ)のお墓だからです。たとえば、大仙陵古墳大仙陵古墳ですね。これは定かではありませんが一仁徳天皇陵とも言われています。ほかにも、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳なんかが有名です。応神天皇陵とも言われています。いずれも大阪府にあります。

 

古墳の変化

さて、この古墳の在り方も少しずつ変化をしていきます。たとえば、古墳前期には縦に穴を掘ってお棺を置いてその上から土をかぶせる竪穴式石室がみられましたが、古墳中期以降になると、横に穴をほって入り口を塞いであとから2個目、3個目のお棺を追葬できる横穴式石室が徐々に登場してくるようになります。また、地方の権力者もこれを真似るようになっていきます。たとえば、岡山県造山(つくりやま)古墳などがみられるようになります。

高句麗好太王碑」

また、古墳時代中期の我が国のことを知るもう一つの手がかりがあります。それはなにかというと、この時代日本にはまだ文字がありませんので、当時の日本を知る手がかりとして、海外おもに中国の史料によって知ることができ、その史料として高句麗好太王碑文(こうくちこうたいおうひぶん)が挙げられます。これまでにも「漢書地理志」とか「後漢書東夷伝」「魏志倭人伝」のお話をしましたね。これらのような史料の中に日本のことがチョイ役として登場してきましたが、この高句麗好太王碑文というのは朝鮮半島の北部(今でいう北朝鮮よりも北の付近)に建てられている石碑に日本のことが書かれているのです。その内容はというと、倭が高句麗朝鮮半島北部の国家)と交戦した記録がのこされています。

 

では,日本(倭国)は「なぜ交戦したのか?」ここが疑問ですよね。実は,朝鮮半島には日本には採れないものがありました。それは何か分かりますか?そう,「鉄」資源です。日本には「鉄」資源があまりみられませんでした。この鉄は,何に使うんでしたっけ??そう!当然,武器にももちろん使いますが,農具にも使うのでした。弥生時代のところでもやったよね?鍬の先っぽに鉄製の刃を装着したのでした。やはり,農耕の発展を考えた時に「鉄」資源というのは,先進技術であったわけです。そこで,以前も勉強しましたが,伽耶諸国を拠点に朝鮮半島へと進出して鉄資源を入手していたのでした。

 

さて,話をもとに戻しますが,そんな朝鮮半島に勢力を伸ばすほどにまで,ヤマト政権はある程度の実力を持っていて、朝鮮半島の国と戦うまでのレベルに達していたということが高句麗好大王石碑文でも文字史料として記されています。また、騎馬技術も習得していたのではないかと推測されています。

 

宋書倭国

この宋書倭国伝には日本のことがどのように書かれているかというと、まず倭の五王といわれる5人の王様が中国の南朝朝貢したということが書かれています。朝鮮半島南部での日本の立場を有利にするため、やはり日本は朝鮮半島に勢力を得ようとしているのが「高句麗好太王碑」でも分かりましたが、「宋書倭国伝でも中国の王朝と友好関係を築いておこうとする動きがみられます。ところで、5人の王様って誰やねんっていった感じなのですが、「讃さん、珍さん、済さん、興さん、武さん」の5人であるということが示されています。この中でも「武」王は、雄略天皇ではないかと言われています。この雄略天皇にはワカタケルという別の名前もあります。この人に関してはまた後ほど詳しくお話をします。

 

 

 

今回は、古墳時代中期のあらましを紹介しました。この時代のことを知る手がかりとして、中国や朝鮮半島の史料に日本のことがチョイ役として書かれているので、文字のない時代の我が国の歴史を知ることができるのです。今回はここまでです。