日本史オンライン講義録

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061 情勢の変化/朝鮮・琉球・蝦夷ヶ島

目次

 

今回と次回は、室町時代の東アジア(中国や朝鮮)情勢についてお話をしたいと思います。今回は、とくに日本と中国の関係について話をしたいと思います。

鎌倉時代に中国との関わりといえば何でしたか?そうですね、元がやってきて日本に攻め入りましたね。モンゴル人達による元寇が起こりました。ですので、鎌倉時代の間に中国は南宋という王朝からに変わっていきます。そして、南北朝時代室町時代あたりで、元からへと変わります。このようなイメージを思い描いて置いて下さい。だから、室町時代の初めあたりは、まだ元という王朝が存続しており、足利義満日明貿易をはじめた、そのあたりからになったという感じですね。では元から明へのお話をしたいと思います。

元との通交

それでは、足利尊氏はまだ元の時代のころでしたので、まずは元との通交についてみていきましょう。

建長寺船の派遣

これは鎌倉時代のお話になるのですが、鎌倉時代、日本は元から攻め込まれます。国と国とのお付き合いはというと、戦争をしていたくらいの情勢ですのであまりよくありません。しかし、民間人の商売レベルでは比較的やりとりがあったのです。そして、幕府では建長寺というお寺を修築しようとしたときに船を派遣します。船を派遣するということは、つまり日本の商品を積んでいって向こうで売って、そして中国の商品を積んで帰ってきて日本で売りさばくということをするようになるので、そうすれば儲かるわけです。今みたいに外国製のモノや産物なんてすぐに入手することは難しかった時代です。こうした船をだせば中国は必ず日本のレア商品を入手できるわけだし、日本は帰ってきた船で中国のレア商品が入手できて、100%儲かるわけなので、船を派遣して建長寺の修築の資金を集めまくったということになります。

天龍寺船の派遣

そして、時代は室町時代足利尊氏の時代ですね。中国では元の時代です。さて、この時代に同じように船を送りました。その名も天龍寺船といいます。これは、足利尊氏がお坊さんの夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで後醍醐天皇の冥福を祈る寺を建てなさいませと 後醍醐天皇はもちろん足利尊氏のライバルのような存在で、一時は敵同士だったのですが、亡くなってしまえば敵なんだけどライバルながら優れた人物であったことから冥福を祈りましょうということで天龍寺を建てようとしました。このお寺の建築資金を集めるために派遣した船なので、天龍寺船といいます。これが元との関係です。鎌倉時代、攻撃を受けてそれを撃退し、国同士のおつきあいというのは難しかったのですが、民間人レベルの貿易あるいは建築の資金集めのために船を派遣してそこから利益を得るということがあったようです。

情勢の変化

さぁ、そうすると元から明へと時代が変わっていきますよ。これが情勢の変化です。

元から明へ

まず、中国では元にかわり明が建国されました。明の初代皇帝は朱元璋(しゅげんしょう)といいます。世界史的には非常に面白い人物で、人間的にも表裏がはっきりしていて、非常に性格が暗いのに能力だけはやたらと高いので、これが明の時代の暗さを物語っています。ですので、明の時代っていうのは中国史史上でも暗黒時代なんです。明(みん)っていうより暗(あん)と名乗ったほうがいいんじゃねえの?って思うくらいです。と続けていくと、時間が足りなくなってしまうので、簡単にまとめますと、朱元璋がモンゴル人の支配を排除し、漢民族の国を建国したっていうことを抑えておきましょう。これが元から明へという時代です。

倭寇の出現

そして、東アジア周りの国を見渡してみますと、元の末期頃から出現しはじめたのが、倭寇(わこう)といって、朝鮮・中国沿岸で略奪行為を繰り返した海賊集団が現れるようになりました。

前期倭寇

倭寇には前期倭寇といって、対馬肥前壱岐などの住民が中心となって海賊行為を行ったのですが、この倭寇の倭というのは日本人という意味なので、その名の通り日本の人々も倭寇に多く含まれていたのですね。

後期倭寇

この倭寇っていうのが、略奪行為をして「オレも海賊になる!」「いや、オレだって!」っていう感じになると、中国人や朝鮮人あるいは東シナ海沿岸の人たちも海賊行為を行うようになってくるのです。16世紀頃から激化し、中国人などの密貿易者が中心の海賊集団を後期倭寇といいます。

明との通交

さて、こうした情勢を背景として、明が建国され、あるいは倭寇がさかんに活動するといった背景のもと、明とのおつきあいが始まります。

朝貢貿易

足利義満が、「国と国との付き合いをはじめませんか?」ということで、僧の祖阿(そあ)、博多上人の肥富(こいつみ)を派遣し、明との国交を開きます。そしたら、貿易を始めるに当たってその貿易スタイルはどんなものだったのでしょうか?それは、まずは朝貢貿易というスタイルをとります。朝貢貿易は何度も出てきましたね? 、日本の方が立場が下であるということです。足利義満さんは、「日本国王源道義」の称号をもらうわけですね。そして、自身は明への文書の署名として「日本国王臣源」と明の家臣である日本国王の源といいます。国王だったら一番えらいんじゃないの?って思うかもしれませんが、中国で一番えらい称号は帝(皇帝)なんですね。そして、中国周辺のその他の国は中国の帝(皇帝)から名乗ることを許された王という称号です。なので、日本国王の王という字を使うということは、中国と比べると一歩へりくだっているということになります。じゃあ、日本の方が立場が下だったら損な取引なのでは?と思ってしまいますが、この王から帝(皇帝)に使者を派遣して船を出したら貢物をもっていくわけですね。そしたら中国は基本的に立場が上ですので、2倍返し、10倍返しのようにこの貢物よりも多くの返礼品があるわけです。なので、日本の方が立場は下だが利益は日本のほうが多いというのが朝貢貿易の特徴です。

勘合貿易

もう1つの特徴はというと、足利義満のときにもお話しました勘合貿易ですね。明に派遣される貿易品を貢物として持っていく遣明船は、勘合とよばれる証票を持参して、底簿と照合されます。なぜ勘合貿易という形をとるかというと、さきほど出てきた倭寇と区別するためです。たとえば密貿易という形をとったり、肩章は日本のものであるが、日本の人かなと思って招いたら荒らし回られるってことがないように、勘合を持って底簿と照合をして「あぁ、日本からやってきた本当の使者だね」っていうことで貿易をします。つまり勘合は、倭寇の取り締まりっていう意味があるわけですね。

 

中断と再開

開始をしたのは3代将軍・義満なのですが、中断をしたのは4代将軍・義持ですね。義持さんはお父さんとは何かと馬が合わないところもあり、また日本の方に利益はあるんだけど立場は日本の方が下といった朝貢貿易のスタイルも嫌って、一時中断をしました。しかし、中国との貿易というのは何しろ儲かるわけなんですよね。絶対に日本にないものが中国にはあって、それを持ち帰れば利益が得られるので再び貿易を再開させます。再開させたのは誰かというと、6代将軍・義教です。

その後の日明貿易はというと、幕府が衰退します。応仁の乱で京都の町が焼け野原となり、幕府の権威も跡継ぎ争いによってガタ落ちです。この日明貿易を行うのは、有力な守護大名が中心となります。有力な大名というのは何かというと、主要な港を抑えている大名のことをさします。例えば、細川氏ですね。細川氏は、堺の商人と手を結びました。そして、博多の商人と結んでいたのは大内氏です。このように、対をなしている場合、センター試験などでは、互いに入れ替えて正誤問題として問うてくることが非常に多いので、このように2対2の事項が出てきた場合は、警戒して対応しましょうね。

応仁の乱東軍細川氏西軍は山名、大内氏

は東だから細川氏博多は西だから大内氏

ここは語呂合わせよりも、応仁の乱とセットにしてしまえば効率よくまとめることができますね。試してみてください。

さぁ、この細川氏大内氏寧波(にんぽー)という中国の非常に大きな貿易港で、両者が衝突します。中国の港で日本人同士がケンカをはじめたわけですよ、もう中国の人たちからしたら、ケンカだったら他所でやってくれよって感じで非常に迷惑ですよね。まぁ、この出来事を寧波の乱というのですが、この戦いで大内氏が勝利し、貿易を独占するということになります。

日明貿易の貿易品

では、最後にこの日明貿易の貿易品目にはどういったものがあるのでしょうか、みていきましょう。まずは日本から中国へ、つまり輸出品ですが、これは武器ですね。他にも工芸品が盛んに運ばれていきました。一方で、輸入品はというと、明銭室町時代はカネ社会でしたね、お金を流通させ、お金で取引をし、お金で税をとる、そういうような国であるにもかかわらず、日本でお金を鋳造せず中国のお金を輸入してそれを使っていたんでしたね、ですので武器や工芸品を貢物として中国にもっていって、中国皇帝からたくさんの銅銭を持って帰ったということですね。この銅銭、代表的なものとしては永楽通宝(えいらくつうほう)が挙げられます。中国の永楽帝という世界史では非常に有名な皇帝の時代にたくさんの銅銭が返礼品として送られました。

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この永楽通宝のお金のマークなんですが、あの織田信長の旗印として使われています。

 

まとめ

さて、今回は室町時代の間に中国は元から明になりましたという話をまずはじめにしました。そして、元の時代からちょこちょことしたおつきあいがあったのですが、明になるといよいよ日明貿易で盛んに通商を行ったということ、幕府が衰退してしまうと守護大名細川氏大内氏が貿易を盛んにおこなうようになったのですが、最終的には大内氏が貿易を独占するようになったというお話をしました。今回は以上です。

目次

 前回は、鎌倉時代から室町時代のあいだに中国が元から明に変わったというお話をしました。今回は、室町時代の裏手にあたる、朝鮮の歴史あるいは琉球地域、蝦夷地域の話をしたいと思います。

朝鮮

それでは、まずは朝鮮です。朝鮮王朝がこの時代に成立しています。この朝鮮王朝を建国したのが李成桂という人です。この前の朝鮮の国は高麗と言っていましたね。高麗は、元に服属して、元と一緒に日本へやってきた国なんですが、その高麗という王朝を

日朝貿易

倒して朝鮮王朝が建国されたわけです。では、朝鮮と日本との関連として日朝貿易のお話をしたいと思います。日本は、対馬を抑えている領主・宗氏を通して朝鮮と貿易をしてきました。これはもう戦国時代・安土桃山・江戸時代を通してずっとです。ですから、対馬といえば宗さん一族が治めていました。そして、宗さんといえば朝鮮と日本との窓口になっているということです。

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この地図のように、たとえば旅行とかで博多湾から釜山へフェリーでいくときに、右手にずっと見えているのが対馬です。地図をみれば一目瞭然ですが、地理的にも外交的にも日本と朝鮮との架け橋的な存在だったのが対馬ですね。この対馬を治めているのが宗氏で日本との窓口となったのでした。

そして、朝鮮に日本の人がやってきたらどこの港で取引をしていたのかというと、3つの港で行っていました。これを総称して三浦(さんぽ)といいます。浦っていうのは港っていう意味です。朝鮮南部の塩浦(えんほ)、富山浦(ふざんほ)、乃而浦(ないじほ)の3つの港を開いて、日本と商売をはじめました。そして、この朝鮮王朝の都は漢城(今のソウル)です。その都にいろいろなやり取りをする根拠地として倭館を設置されました。

日朝貿易の中断と再開

ただ、ずっと継続的に良好な関係であったかというと必ずしもそうではなく、応永の外寇(おうえいのがいこう)といって、朝鮮が対馬を襲うという事件が起こりました。そのため、一時期の間、日朝貿易は衰退をします。そして、再び日朝貿易が活発化するわけですが、朝鮮内の日本人が不満を持ったため暴動が起こりました。これを三浦の乱といいます。

応永の外寇

まず、この応永の外寇なんですが、九州と朝鮮半島の間に対馬がありましたね。倭寇が断続的に海賊行為を起こしていたのですが、この頃に倭寇が活発になってきたタイミングで、この朝鮮王朝では対馬こそが倭寇の根拠地である、倭寇のアジトではないかということで、兵を出すわけです。そうすると対馬の宗氏たちも自分たちの領内に朝鮮の軍隊がやってきたので、これはやはり追い払うしかないだろうと考え、交戦に発展したのが応永の外寇です。この時、宗氏と朝鮮との関係は悪化して日朝貿易が中断します。

三浦の乱

そして、再び活発化したわけですが、やがて三浦の乱という事件が起こります。

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日本人が3つの港で暮らしていたわけですねが、朝鮮にとって日朝貿易は嬉しいかというとあまり嬉しくありません。というのも、朝鮮国内でわりと自給自足が完結していて、いまさら日本にモノを売ってくれとか、売り買いを活発にしようとかという気がありませんでした。ただ、日本が貿易してくれ!貿易してくれ!とあまりにも言ってくるので、しぶしぶ貿易をやっているようなイメージです。なので、朝鮮にとって日朝貿易は少し損な貿易といってもいいでしょう。ですので、三浦で日本人が暮らしているわけなんですが、あんまり居て欲しくないわけですよ。そして、あまり貿易も盛んにやりたくないので、朝鮮は日本人に対する様々な制限を加えていったわけなんですね。それに対して日本人が不満に思って暴動を起こすわけです。かくして日朝貿易はまた一時衰退してしまいます。

貿易品目としての木綿

貿易品目としては輸入品として木綿が挙げられます。これは、日本が木綿を大量に欲しがり朝鮮に売らせる流れが続きました。しかし、朝鮮としてはあまり得な貿易ではないと判断し、日本に対する貿易制限をかけました。貿易品目の木綿はテストにも出やすいのでしっかり抑えておいて下さい。

琉球

それでは東アジアの2つ目の話をしていきましょう。

琉球王国の成立

この室町時代の裏側で、琉球地域に琉球王国が成立します。この琉球王国はどのように成立したかというと、中山王の尚巴志によって建国されました。中山王とは何かというと、琉球は当時、北山・中山・南山という3つのエリアに分かれていました。そのうち中山の王様の尚巴志が、三山を統一して琉球王国が成立しました。明や日本などを結ぶ中継貿易で繁栄します。考えてみると、いまの那覇空港っていうのは全日空ANA)が24時間稼働している貨物ターミナルを作って、アジアの国々と結んだ拠点空港として有名ですね。当時も、九州、東南アジア、中国、朝鮮といった国の中心に位置していて、うまくここを貿易の拠点とすればいろんなところと商売のできる地の利を活かせる場所でした。ですので、非常に繁栄をみせます。

そして、その首都は首里ですね。世界遺産にも登録されている首里城ですね。首里城ひとつとってもよく反映したんだなってことがわかります。そして、港としての那覇も主要スポットです。それにしても沖縄旅行はよかったですよね。また是非行きたいなって場所です。

蝦夷

それでは最後に、当時蝦夷ヶ島といわれていた北海道地方のお話をします。蝦夷のよみかたですが、飛鳥・奈良時代で「えみし」といって東北地方にすむ人々のことをいいましたね。そして、今回その蝦夷に「ケ島」とつけいているは、昔の蝦夷(えみし)と区別するために蝦夷ヶ島」(えぞがしま)と表記されています。

さて室町時代になると、津軽(いまの青森県)の豪族・安東氏のもと、和人(わじん)蝦夷ヶ島に進出します。和人というのは本州の人たちのことです。この室町時代の裏で和人が次々と蝦夷ヶ島に進出していきました。そして、居住地の港や館などを建設していくわけです。代表的なのは、道南十二館(どうなんじゅうにたて)ですね。館に付属するいくつかの建物のことを指すのですが、これが12箇所にできました。道南十二館の中でもとくに有名なのが、現在の函館市あたりにかつて存在していた志苔館(しのりだて)が挙げられます。

このように、日本の本州の人々が蝦夷ヶ島に進出していって、和人がそこに住んでいたアイヌを圧迫していくわけです。アイヌの人たちからすると当然迷惑なんですよね。そこで、トラブルが起き始めてきます。たとえばアイヌの大首長・コシャマインが蜂起します。コシャマインの乱ともいいます。当時、コシャマインの乱ときに北海道に乗り込んできた当時の領主・蠣崎(かきざき)氏によって鎮圧され、のちに松前と名乗りました。このように蝦夷と密接に絡んでいく氏族として、安東氏・蠣崎市・松前氏と変遷していきます。

まとめ

今回は、室町時代の裏側でどのような東アジア情勢であったのかを、朝鮮・琉球蝦夷ヶ島を取り上げてお話をしました。前回とセットで、中国・朝鮮・琉球蝦夷と4つに分けて把握をしておくと良いのではないでしょうか。