日本史オンライン講義録

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143 田中義一内閣と中国進出

それでは昭和の2回目です今回は,「ヤキカワタハワイさ」の若槻礼次郎内閣の次ということで田中義一内閣について取り上げたいと思います。

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さて,いま日本は恐慌状態が連続してきていますよね。その背景として企業は借金をして,実力以上のものを作り出し,これを売り出して,儲けが出たら借金を返済するという仕組みで成り立っています。そうすると,思った以上に売れ残ったら倒産の危険性もあるということです。ここに日本の場合は,震災のダメージも加わって,震災恐慌あるは震災手形の処理が進まないっていう案件がめぐって金融恐慌になるわけです。 そうすると,お金を貸している企業が潰れたら,銀行としては貸したお金が返ってこなくなるわけだから,金を返してもらえない銀行をも潰れるんですが,この状況を何とかしようと思うと2つの考え方があるわけですよね。一つは,財布を引き締めて何とか乗り切るパターン。これが考え方としては立憲民政党(若槻・浜口ら)としての考え方です。そしてもう一つは,新しい収入源を見つけるパターン。これが立憲政友会田中義一ら)の考え方ですね。じゃあ,具体的に新しい収入源とは何かというと,「大陸進出を果たして植民地を広げて,企業はそこでモノを売りつける!」っていう考え方です。企業らからすればウケがいいわけですよね。ということで,企業や財閥から立憲政友会への期待が高まっていくわけです。今回は,そんな田中義一内閣についてみていくことにしましょう。

 

 

憲政の常道(政党内閣時代の外観)

若槻内閣①【憲政会】金融恐慌 (片岡直温)協調外交 /幣原外交

田中内閣 【立憲政友会支払猶予令高橋是清強硬外交 /山東出兵・張作霖爆殺事件

浜口内閣 【立憲民政党金解禁  (井上準之助協調外交ロンドン海軍軍縮会議

若槻内閣②【立憲民政党昭和恐慌井上準之助崩壊 /満州事変

犬養内閣  【立憲政友会金輸出再開高橋是清)   /満州国成立

 

 

 

田中義一内閣の時代

この田中義一なんですが,総理大臣になってみたら若槻礼次郎内閣から1つの宿題が残されていました。それは銀行が潰れそう問題です。どんな問題かというと,若槻内閣の大蔵大臣が「銀行がつぶれてしまう」と口を滑らしたもんだから,取り付け騒ぎが起こり,金融恐慌に陥ったのでした。 

経済政策

そこで,この銀行を救うために銀行の機能を停止させて,預金の引き出しはちょっと待って!ということで一時停止させ,その間に銀行にどんどんお金を注入していこうとしたのでした。これをやるには預金者たちを納得させなければいけないので,ある種の強い権限が必要になりますよね。そこで若槻内閣は,銀行等を救うために緊急勅令(天皇からの命令)という形でこのモラトリアムを実施しようとしたんですが,若槻内閣はその軟弱な外交姿勢を批判されて枢密院からはOKが出なかったのでした。しかし,この田中義一は強い外交姿勢を持っていましたし,長州出身で,陸軍出身でしたので派閥的にも枢密院に気に入られていたので,田中義一内閣はこのモラトリアムを実施するための緊急勅令はすんなり通ったのでした。

 

どのくらいストップしたのかというと,3週間ストップしました。銀行は営業するけども,お金のやり取りはストップしよう,その間にお金をどんどん注入していこう,人間の身体でいえば点滴を打っていくような感じです。政府はその銀行の停止期間の間に,お金を供給しなきゃいけませんよね?だから大量にバンバンお金を印刷しなきゃいけません。ですので,ウソのような話ですが,この時印刷されたお金には裏は真っ白なんですね。

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まあそれほど切羽詰まっていたんだっていうことです。そして,田中義一内閣のときには 第1回普通選挙が実施されました 。普通選挙法自体は,「かやおてはた」の加藤高明内閣のときに成立したんですが,その法律にもとづいて選挙が実施されたのが田中義一内閣となります。そして,普通選挙法ですから選挙が実施されてフタを開けてみると,貧乏人や労働者など中心とした社会主義者8名も当選してくるわけですね。そうすると,「ちょっとまずいぞ!このままにしておいたら社会主義者がどんどん増えて国が乗っ取られてしまうかもしれない!ここで一発,牽制しておこう!」ということで社会主義者が強くなり過ぎないように弾圧が行われます。それは具体的には加藤内閣の1925年に制定された治安維持法で牽制をしていくのでした。そして,田中内閣の1928年のときには改正され具体的には,最高刑が死刑に引き上げられたのでした。さすが陸軍出身の田中義一のやることは厳しいですね。

 

外交政策

 そして,三・一五事件ですね。そして,四・一六事件において社会主義者を一斉に捕らえておくことになります。田中義一内閣のもう一つの特徴は,中国大陸の方へ進出して 新たな進出先を求めていこうといった考え方です。

 

では,中国大陸はこれからどのような状況になっていくかというのを見れば いいわけでておきましょう。まず中国では,国民党といわれる中核となる政党が孫文によって作られました(1919年)。これが,中国共産党張作霖などの北方軍閥と対立していたんですね。しかし,ここで第一次国共合作といって,揉めていた国民党共産党がタッグを組むことになります(1924年)。そして,国民党は中核となった蒋介石が国民革命軍を組織し,北伐を開始(1926年)したのでした。

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蒋介石

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張作霖

 

北伐

  (張作霖)北方軍閥満州

         ⬆ 北伐

毛沢東共産党 ♡ 国民党(蒋介石

 

 

そんな中,陸軍出身で強硬外交の立場をとる立憲政友会総裁の田中義一内閣の中国政策として以下のようなことが挙げられます。

 

日本が支援していたのは,さきほど出てきた張作霖という最も有力な満州軍閥です。この張作霖は中国の北京を支配していたので,彼を裏で操ることは利用価値が非常に大きいと判断したわけです。しかし「これは日本の侵略じゃないのか?」「いやいやそれは侵略ではない!」といった議論が東方会議(1927年)で開催されます。そして,「この満州という地域は,中国ではない!今,列強が進出してきて不安定な状況の満州を日本が支援して安定させる!」といったように正当化して結論付けたのでした。

 

特に日本は,この山東半島はかつてドイツが領有していた地域で,第一次大戦の後は,ドイツから日本が利権を引き継いだエリアでした。ここには日本人がたくさんいるので,蒋介石率いる北伐軍から日本人を守るという名目,そして利用価値の高い張作霖を支援するという名目で合計3度の山東出兵(1927〜28年)を行ったのでした。3度の内,第2次山東出兵のときに済南事件といって,蒋介石の国民革命軍と日本軍が衝突しました。しかし,この北伐軍はなかなか強く,どんどんと中国を統一していきます。そうすると この張作霖の持つ北京が北伐軍の手に落ちてしまうわけですね。そして,張作霖は北伐軍に押され,北京を失ってしまうんですね。

 

ここで日本はどう考えるかというと,北京を持っているからこそ張作霖は利用価値があったのであって,このように北伐軍に押されて地元の満州に戻ってしまうと,北伐軍に対してガードを固めるだろうけど,今後日本がどんどん満州に進出した時に,張作霖が殻に閉じこもってしまい利権を渡さない恐れがあると考えたと思われます。この利用価値が低下した満州に引き上げていく張作霖をこの列車ごと爆薬でぶっ飛ばして殺害してしまうといった事件が起きました(張作霖爆殺事件)。誰が犯人かというと,日本本土からの指示があったわけではなく,満州関東軍が,張作霖の利用価値が低下して地元をしっかり固めようとなると日本軍の進出がやりにくくなると思ったのでしょうね。

 

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くどいようですが,もう一度確認しておくと,中国では国民党の蒋介石が中心でした。蒋介石は国民革命軍を作り,北伐を進めましたね。北伐というのは,中国の北方軍閥を討伐する行為のことでした。そこで,若槻内閣はこれには無干渉でしたが,田中内閣は軍人出身でもあるので「いやいや,これは何とか邪魔をしよう!」といいます。なんで邪魔をするかというと,真の理由は張作霖にあるのでした。この張作霖は,なかなかのヤクザさんの大親分みたいな存在で,彼が拠点としている場所が,日本が拠点を持っていた満州だったのです。実は,蒋介石の真の目的とは,満州北方軍閥張作霖をやっつけて,この満州を取り戻そうというのが狙いです。 もともとここは中国のものでしたが,日露戦争で勝利した日本が,南満州鉄道を敷設するなど権益をいっぱい持っていました。それを取り戻そうとしたのが蒋介石です。しかし,そこには張作霖がいるので,張作霖をやっつける,そうすれば取り戻せるっていうのが蒋介石の論理です。しかし,ここで動いたのが田中義一でした。もともと張作霖と日本は友達関係だったんです。その前は,張作霖はロシアの手下だったのです。やがて張作霖は日本軍に捕まって処刑される一歩手前だったのですが,満州にいた軍人が「おまえ,日本のためにこれから一緒に働かへんか?」と誘われたことから,日本と友達関係になるのです。その満州にいた軍人こそが,そう!この田中義一だったのです。とくに,南満州鉄道を警備する関東軍という日本の陸軍一派も,張作霖と友達関係でした。日本の考え方としたら,この強い張作霖を支援することで,自分たちの権益であった満州を守ろうという算段だったのです。一方で,蒋介石はこの張作霖をやっつけることで満州の権益を取り戻そうとしたのですね。ところが,日本からすれば「おいおい!蒋介石,勝手なこと言うなや。もともとここはお前らの土地やったかもしれん。でもな,ここに万里の長城があるやん!それより満州側はお前ら放置状態やったやんか。清朝の時代から野放しやったやんか!治安は悪いは,ヤクザさんはおるわの地域やったから,そこをいつしかロシアが腰を下ろして,でも日本が日露戦争で勝ったからこの満州はわしらのものになってるんやろ?それを戦ひとつもせず,日本から奪いとるとか調子良すぎひんけ?」こんな感じですね。だって,ポーツマス条約で,21か条要求で,ヴェルサイユ条約満州は国際的にも認められた権益なところですからね。張作霖をやっつけて満州を分捕ろうとする蒋介石の北伐を妨害してやれ!ということで山東出兵したのでした。

 

 

そこで,なんと関東軍奉天郊外で張作霖を爆殺するという事件が起こります。最初は,満州某重大事件(1928年)といって,ぼやかした表現をしていました。しかし,田中義一首相も「これは関東軍の仕業だろうな」とある程度予想できていたので,昭和天皇には「日本の関東軍張作霖を爆殺したらしいです。」っていうことを伝えておきながらも,張作霖を爆殺したのは日本の仕業だということが世界に伝わったら国際的な避難を浴びかねない。ということで財閥や国会議員から「それは秘密にしておいた方がいい!」と圧力をかけられたために,次に天皇陛下に会ったときには「この前のあの事件は,結局関東軍の仕業ではなく満州で起きたよくわからない満州某重大事件(1928年)だったらしいですよ。」って言い方をしたので,昭和天皇田中義一に「あなたのことがよくわからない。信用できない。」と不振を買ってしまって田中義一内閣は総理大臣をやめることになったのでした。

 

パリ不戦条約

田中義一立憲政友会の外交は中国に対しては強硬に出て行きますが欧米には協調を保ちます。すでに総辞職の話をしてしまいましたが,総辞職する前にパリ不戦条約(1928年)というのを実は調印しています。これはフランスのパリで15カ国が集まって結ばれました。これは実は戦争放棄を初めて約束した条約なんですね。太平洋戦争が起こる前に日本は軍国主義や!というふうにひとくくりしてはいけません。大正の後半から昭和初期にかけては確かに強硬外交の一面はあるものの,欧米とは協調外交でなんと戦争放棄に関する条約まで結んでいるんですよ。ですから欧米とは協調を維持したということです。しかし,ちょっと問題があったのは条文の中に「人民の名において 戦争放棄をこれを厳粛に宣言する」って書いてあったんです。この「人民の名において」が問題だったんですね。だってわが国は天皇制でしたよね?日本の憲法では天皇が元首であって天皇制国家なんです。だから人民の名においてっていうのは天皇制にはそぐわないもので天皇陛下に対して失礼ではないか?ということで,ちょっと問題になったりもしました。まあ,条約は結ばれ調印され批准をされました。

 

今回は田中義一内閣ついてのお話でした。以上です。