日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

144 金解禁と昭和恐慌

今回は,金解禁と昭和恐慌についてです。金解禁を行ったときの内閣は,浜口雄幸内閣です。正直言うと,日本史の中でもこの金解禁については,教えるにあたって一番工夫の必要な単元です。私も頑張りますので,是非みなさんもついてきてください。

 

 

憲政の常道(政党内閣時代の外観)

若槻内閣①【憲政会】金融恐慌 (片岡直温)協調外交 /幣原外交

田中内閣 【立憲政友会支払猶予令高橋是清強硬外交 /山東出兵・張作霖爆殺事件

浜口内閣 【立憲民政党金解禁  (井上準之助協調外交ロンドン海軍軍縮会議

若槻内閣②【立憲民政党昭和恐慌井上準之助崩壊 /満州事変

犬養内閣  【立憲政友会金輸出再開高橋是清)   /満州国成立

 

 

 

日本は恐慌の連続(戦後恐慌震災恐慌金融恐慌)でしたね。こういった恐慌などの連続に対応するために,日本がとった方法は何だったのでしょう?まずどんな国でも恐慌が続いたらお金が行き渡らなくなるので,とりあえず紙幣を印刷しまくって,裏が真っ白な紙幣でも印刷しまくって,銀行へと供給する政策をとったのでした。こういうのを金融緩和って言ったりします。そうすると,裏が真っ白な紙幣を印刷してどんどん配りまくれば,その紙幣の価値っていうのはどうなりますか?そうですね,下がりますよね。つまり,紙幣はただの紙切れに近づいていく(価値を失う)ってことになります。そうすると,世界はどうなっていたのかというと,当時はほとんどの国では金本位制を敷いていました。金本位制とは,紙幣を銀行に持ち込めば,ちゃんと金◯◯グラムに交換してもらえます。このように紙幣1枚=金◯◯グラムってリンクしている紙幣のことを兌換紙幣といい,貿易をするときは各国の兌換紙幣を金に交換することで決裁しますね。そうすると,世界の貿易相手国はみんな金で決裁しているのに,日本だけはどんどん紙切れに近づいていくのような紙幣にも関わらず「モノを売ってくれ!」と言ったところで,それはなかなか世界に信用してもらえませんよね。こういった状況を踏まえた上で,浜口雄幸内閣が登場します。

 

昭和恐慌

その時の大蔵大臣は井上準之助です。紙切れに近づいていくような日本円なので,どこの国も日本と貿易をしてくれないわけですから,これを一気に引き締めようということで日本も世界標準の金本位制にします。具体的には,20円金貨を作り,20円紙幣といつでも交換できるように固定しました。そうすると,この紙幣の価値と金の価値は一緒になって,日本円の国際的信用がグッと上がるわけです。余った紙幣はどうするのか?っていうと,それは回収して処分してしまいます。そうすると,日本円と金がガッチリとリンクしているので,貿易はスムーズに行くだろうということになりますよね。で,この貿易は金で決裁するってことは,要するに外国からモノを買ったら金で支払いますので,見た目として金が輸出されるとも言えますよね。このことを金輸出解禁(1930年)といったりします。

金 貨   紙 幣

20円 = 20円

 いつでも交換可能 = 貿易は金で決裁

           スムーズな貿易(金輸出解禁

ここで,一つの問題が浮かび上がります。紙幣と金貨を固定して貿易を金で決裁して,金を輸出する一連の流れのことを金解禁というのですが,ここで,一つの問題が浮かび上がります。この紙幣と交換できる金貨の大きさであったり,重さであったりはどれくらいなのか?って問題です。要するに,1円につき金何グラムと交換できるのかを設定しなくちゃいけません。このときに100円を金貨に変えた場合,

①世界相場で金49.845ドル分と交換できる昔の相場基準

②世界相場で金46.5ドル分と交換できる実際の今の相場基準

のどちらを採用したかというと,日本は①を採用したのでした。なぜ①を採用したのかというと,日本は日清戦争が終わった後で金本位制をとったのですが,そのときに作った金貨と同じ大きさ重さにしたのでした。世界相場と同じ金貨を作ろうとしたら,法律を変えなきゃいけなかったので,それじゃあもう昔つくった金貨でいこうやってことになりました。

 

円に対して金を少し多めの設定にしてしまうってことは,見方を変えれば,同じ金の量だと紙幣の量はちょっと少なくなるってことになりませんか?だって100円で49.845ドル分も交換できた場合と,100円で46.5ドル分しか交換できない場合を比べたときに,ドルからみたときの円の価値ってのは,49.845ドルで100円の方が高いってことになりますよね。100円に対する金の量を多めに設定すると,同じグラムの金を日本が持っているとしたら,①の設定のほうが②の設定よりも少なくなりますもんね。そして,余った紙幣は処分するわけですから,紙幣の量が減ります。減るってことはお金が入りやすくなりますか?入りにくくなりますか?そう!入りにくくなりますよね。松方財政のところでもやりましたが,地租は円で支払うことになっていましたので,円が手に入りにくくなってしまったので人々は地租を払いにくくなりかなり苦しみました。例えば,日本では100円のTシャツが売られていたとします。でも,①の場合だったら貿易で100円Tシャツを購入する場合には,金49.845ドル分なわけです。そして,もし②の場合金46.5ドル分でいいわけですから,日本製品は工場で同じ100円で作ったとしても,金の量の設定によって数%くらい割高になりますよね。日本製品は割高になる!ってことですから,日本製品は不振に陥ります。今まで日本を支えてきた綿織物や生糸や造船などの輸出業が不振になっていくわけです。この金の設定を多めにするか,少なめにするかで,多めに選択しちゃったがために,このような状況が生まれたのでした。

1 世界基準に比べて,円を交換する金の重さを多くした。

2 世界基準からすると,円の価値が高くなる。

3 円の価値が高いってことは,円製品(日本製品)が高く見える。

4 円製品(日本製品)が高いので,世界で売れなくなる。

って感じですね。そこに追い打ちをかけたのが,「世界はすでに世界恐慌」だったのです。世界恐慌が,日本国内のデフレによる民衆困窮や輸出業不振に追い打ちをかけたのですね。

 

いま世界では,恐慌が連続している状況です。金融緩和をしなければなりません。たとえば,明日潰れそうな銀行がある,餓死しそうな国民がたくさんいる,そんな場合にバンバンと紙幣を発行して供給することを金融緩和といいましたね。いいですか?要するに,今までは金と紙幣の交換比率を固定していたのに,そこで金と紙幣の裏付けを断ち切って,金の量とは無関係に不換紙幣を発行してしまおうとしたのです。要するに,世界は金輸出をもう一度禁止して,金融緩和を行いにかかったのでした。こういった状況に日本が,いわば円の価値を高めて金の価値を下げる(円高金安)ことで,金解禁を行ったのでした。そうすると海外の人達にとっては,金安ってのは魅力的にうつるわけです。だって,金で買える製品が安いってことなので。逆に,円で買える円(日本)製品は高いったことなので魅力的ではありませんよね。

 

そこで世界のお金持ちの人たちはこんなことを考えます。「世界は遅かれ早かれきっと金輸出をもう一度禁止して金融緩和(金と紙幣を切り離して点滴のように印刷した紙幣を市場にばらまくこと)をやってくるだろうから,日本では円高金安の状態なわけだし安い金をたくさん買っておこう。そもそも金は安定した資産なわけだし!」となるわけですね。日本としては,貿易がスムーズになるように金解禁をしたのに,かえってあの20円金貨がドバーッと海外へと流出していったのでした。日本が金安のうちに金をバンバン買っておこうっていう流れはどんどん加速していきます。そうすると,日本の金が流出して目減りしていくと,紙幣においても(金が目減りした分だけ)処分していかなければなりませんよね。この期間にますますデフレが進行していきます。デフレが進行すると,地租を払う民衆たちが困窮しますし,輸出も不振に陥り壊滅的な打撃を受けてしまいます。

 

このような危機的恐慌のことを,昭和恐慌といいます。

 

浜口雄幸内閣

では今度は,そんな昭和恐慌浜口雄幸内閣の目線から見ていくことにしましょう。まず,浜口雄幸内閣は,恐慌を乗り切るために金解禁(1930年)を実施します。狙いは,乱発していた不換紙幣のために不安定になっていた為替相場の是正と貿易振興のためでした。しかし,それが旧平価(日清戦争後の頃の金の相場)による金輸出解禁であったので,お金に対する金の量が多くなった,つまり円高金安の状態で解禁してしまったので,円製品が海外では売れにくくなり(輸出の不振),金回りの悪くなった国内では,民衆のお給料の激減した民衆は地租も払えず困窮していきます。

 

そして,世界恐慌の影響の波及金が大量に国外へ流出することになり,ますます国民はお金が手に入りにくくなるとデフレはますます極端に進行します。こんな危機的恐慌のことを昭和恐慌といいます。農村も壊滅的です。税は払えませんから,人身売買が行われます。企業がバタバタと倒産に追い込まれてしまいます。

 

このようにバタバタと企業が倒産してしまうと,浜口雄幸内閣は重要産業統制法(1931年)を制定します。これは何かというと,繊維・重工業などのカルテルを容認します。カルテルというのは企業と企業が話し合って価格の設定を話し合ったり,よそ者に対して排除をしたりする談合のようなものなのですが,経済業界に国家の手が及ぶことにもなりますので,重要産業統制法は国家による経済統制の先駆けとなります。

 

そして,浜口雄幸は立憲民政党であり,立憲民政党は協調外交の姿勢を取りました。ですので,この時の外務大臣幣原喜重郎のとった協調外交のことを幣原外交ともいいます。浜口内閣はこの幣原外交のもと,ロンドン海軍軍縮会議に参加します。そこで,ロンドン海軍軍縮条約を締結し,主力艦の建造禁止の5年間延長あるいは補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7といったように,軍縮へと向かっていきます。しかし,立憲政友会の軍部右翼が「これは統帥権の干渉である!」と激しく攻撃をしたのでした。ちなみに統帥権というのは,軍隊の権限を握っている天皇の権利のことです。だから「天皇の軍隊を天皇の許可も得ずに勝手に減らしてるのは許されない!」と浜口雄幸内閣は厳しい追求にあります。そんなときに,浜口首相は何者かによって狙撃されて重傷を負ってしまい,内閣続行は不能となり退陣に追い込まれてしまいます。ちなみに主力艦保有比率がアメリカの6割と定められたのはワシントン会議で結ばれた海軍軍縮条約加藤高明内閣のときに幣原喜重郎が全権として交渉にあたりました。