日本史オンライン講義録

受験勉強はもちろん、日々の学習にも役立つ日本史のオンライン講義です。 

015 斉明天皇・天智天皇 天武天皇♥持統天皇の時代 

今回は、斉明天皇天智天皇の時代をみていきます。おそらく中学校のころ習っている天智天皇ですが、百人一首の第1首目「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」でも有名ですよね。天智天皇の名前は知っているよっていう人も多いのではないかと思います。

斉明天皇の時代

この斉明天皇というのは、前回お話した皇極天皇が再び天皇の座に返り咲いた人です。このように重ねて天皇になるということを重祚するといいます。この斉明天皇の時代ですが、朝廷の勢力が東北にまで及びます。この斉明天皇によって派遣された人物が、阿倍比羅夫というのですが、この阿倍比羅夫さんが蝦夷(えみし)を平定します。蝦夷っていうのは、飛鳥の朝廷からみると言ってみれば異民族と言われていた人たちで朝廷のいうことを聞かない人たちでもあるので、斉明天皇がこれに対して阿倍比羅夫に行ってまいれと命令をし朝廷の影響力を高めるために派遣しました。この阿倍比羅夫は、勝利に次ぐ勝利をおさめ、北海道まで攻め入って蝦夷を征服していったのでした。

これによって斉明天皇の時代は、朝廷の影響力がどんどんと順調に広まっていくのですが、ここで斉明天皇の耳に新たな知らせが届くのでした。それはなにかというと、朝鮮半島情勢の変化についての知らせでした。

 

海の向こうの朝鮮半島ではこういう変化が今起きていますよ!っていうことで、唐と新羅が、百済高句麗という朝鮮半島の国々を滅ぼしたのでした。とくに百済という国は日本とつながりの深い国でしたよね?仏教ももたらしてくれたし、渡来人もやってきましたし、あるいは鉄資源も日本に供給してくれましたので、日本も百済をうまく利用することで、朝鮮半島にうまく影響力を及ぼすことができました。百済と日本というのは非常に密接な関係があったのですが、それが滅びてしまったわけですね。この唐の後ろ盾によって新羅朝鮮半島を統一するわけです。そうすると滅ぼされた百済には王家の生き残りがいるわけですね。王子様が今まで繋がりの深かった日本に対して、再起を図って助けを求めに来るのでした。それが百済の王族で豊璋(ほうしょう)という人物で、「あわよくば新羅をやっつけて、再び百済の王朝が復活するように助けてくれないか?その昔、鉄資源を日本にもたらしてあげた仲じゃないか?」ということで駆け込んできたのでした。これに対して斉明天皇はどういう反応をしたのかというと、「よしわかった!百済を失うことは日本にとっても損失である。救援の軍隊を派遣しましょう!」と決めたこのあと、斉明天皇は死去してしまうのでした。

 

中大兄皇子の時代

次に天皇の座につくのは、中大兄皇子でも全くおかしくないのですが、この段階では、中大兄皇子天皇の位にはあえて就かずに、政治の実権を握りました。このことを称制(しょうせい)といい、皇太子という立場で中大兄皇子が政治を行う時代がしばらく続きました。

 

白村江の戦い

中大兄皇子は日本に救難要請を行ってきた百済とタッグを組んで、唐・新羅軍に戦いを挑んでいくのでした。百済に派遣を決定したのは斉明天皇なんですが、事実上のGOサインを出したのは中大兄皇子というわけですね。これが白村江の戦いというのですが、この戦いはなんと大敗を喫してしまうのでした。敗因はというと、日本が朝鮮半島へどんどん船を派遣して白村江へと向かっていくのですが、作戦らしい作戦があったわけではなく、勢いをつけていけばきっと相手もひるむに違いない!といった場当たり的な考えだったんですね。

すべての船がみんな同じスピードで海を渡って上陸できるとはかぎりません。日本軍は隊列を整えることもなく、たとえば「1号機到着しました、1号機上陸しまーす!」「2号機到着しました、2号機上陸しまーす!」「3号機到着しました、3号機・・・」といったように次から次へとバラバラに敵にあたっていったわけですね。唐・新羅軍からすれば、カタマリでせめて来られるよりも、バラバラで上陸してくれたほうが、その都度海に叩き沈めさえすればいいだけですので、結局は日本に帰ってくる船もわずかでコテンパンに破れてしまう、それが白村江の戦いなのでした。

 

天智天皇の時代

ここで中大兄皇子はようやく天皇の位につきます。これが天智天皇の時代です。この天智天皇は、さきほどの白村江の戦いで大敗したことが相当ショックだったようで、凹んでしまって、ここからは少しディフェンシブで消極的ともいえる政策をとります。

近江大津宮へ遷都

まず近江大津宮(今の滋賀県へ遷都します。これまで孝徳天皇の頃は、蘇我氏ゆかりの地であった飛鳥ではなく、あるいは一日でも早く朝鮮半島の情報を入手することができる沿岸の難波宮に都を構えていたましたね。しかし、今回白村江の戦いで大敗を喫した中大兄皇子としては、いますぐにでも唐・新羅軍が攻めてきてもおかしくない状況へと追い込まれました。ここは大阪湾沿岸よりも内陸のほうが安全であるということから大津宮に都を移します。しかも、大津という地は琵琶湖の南岸にあり、最悪せめて来られたとしても、湖の向こう岸に渡ってしまえば、そのまま東国へと逃げ切ることができるとも考えていたようです。なので天智天皇の気持ち的には少し後ろ向きなディフェンシブな考えの元での遷都だったようです。

 

水城・朝鮮式山城

そして、九州においた朝廷の出先機関である太宰府を防衛するために置かれたのが水城(みずき)でした。水を湛(たた)えた長い堤防のような防護壁を築いたのでした。そして、太宰府の北方には大野城(おおのじょう)、そして基肄(きい)城というお城を作ったのでした。対馬から九州中国地方、瀬戸内地方にもたくさんのお城を築いたのでした。もしかすると唐・新羅連合軍が畿内の朝廷を攻め込んでくるかもしれないので、多数のお城を作っていくわけです。これを朝鮮式山城といって、広島の城が落とされても、岡山でまもる、岡山の城が落とされても、兵庫でまもる、命がけで朝廷をまもる!守る!守る!守る!まさにディフェンシブな政策ですよね。

 

庚午年籍

天智天皇の政策としてその他にも、庚午年籍(こうごねんじゃく)といって、日本最初といわれる戸籍を作ります。

 

近江令

そして、日本最初の法典とされる近江令が作成されました。憲法十七条はというと、あれは役人の心得みたいなもので法典ではありませんでした。その法典が最初に作られたということで近江令は有名ではあるのですが、実在したかどうかっていうのはどうやら怪しいらしく、まぁでも一応のところ天智天皇の業績として語られているので上げておくことにします。

 

斉明天皇天智天皇のまとめ

以上、天智天皇はこのように、都を大津宮へ移してみたり、守りに非常に終始したり、わりとナイーブな性格だったのではないかなと思われます。天智天皇中大兄皇子時代、乙巳の変でも政治的ライバルを暗殺してみたり、天智天皇は次々とライバルを政治の座から追い落としていきましたので、ちょっと明るくはない性格ですよね。百人一首の歌にも、「秋の田の刈り取った稲穂で屋根を作ったので、雨粒がシトシトと落ちてきて自分の着ている衣も露で濡れてんだ」みたいな歌を歌っているので、どこかしら根暗とまでは言わないまでも、どこか影のある複雑な人格を持った天皇であったのではないかなと思われます。以上、前半をまとめました。

 

壬申の乱

 さて、次に起こったのは皇位継承争いでした。これを壬申の乱といいます。 天智天皇には弟と息子がいたんですが、弟の名前を大海人皇子(おおあまのおうじ)、子どもは大友皇子(おおとものおうじ)といいました。この二人が天皇の座をかけて争います。この大海人皇子は、晩年ディフェンシブになっていた天智天皇と協力して政治を進めていった実力派であることはみんなも認めていたので、次期天皇の最有力候補としてみられていました。しかし、天智天皇はやっぱり自分の息子である大友皇子天皇の位を譲りたいって思ったのです。これは別に問題ではなく、大海人皇子としても「まぁ、兄貴の息子なわけだしこれは仕方ないよな。オレは潔く大友皇子天皇の座を譲るよ」といって奈良の吉野へ隠居をするわけですね。

しかし、そうしたところで天智天皇が死んでしまいます。すると、大友皇子は、やっぱり人望のある叔父さん・大海人皇子を差し置いてオレが天皇になってしまうとなると、さらに叔父さんに人気を奪われてしまうんだろうな。向こうは人望があって、オレには人望がない。と勝手に思い込んでしまって、少しずつ叔父さんの大海人皇子を疎ましく思って勝手にライバル視していくわけですね。そして、どんどんと大海人皇子にプレッシャーをかけていくのでした。すると、このままでは滅ぼされてしまうと考えた大海人皇子は一大決心をして甥っ子・大友皇子を相手に挙兵をするのです。こうして大海人皇子大友皇子が直接刃を交えて戦うということになります。

 

天智天皇から「次はお前だよ」って将来を約束されたものの、名実ともに格上であった叔父さん・大海人皇子が圧倒的なわけですので、次第に疎ましく思い圧力を強めたところ、大海人皇子も身の危険を感じて挙兵するという流れですね。この挙兵に踏みきった場所はというと、美濃(今の岐阜県)でした。大友皇子が根拠地とするのは大津宮ですが、その一方で大海人皇子が根拠地としたこの美濃という地は東国への玄関窓口でもあります。いわゆる東日本の豪族たちを味方につけて兵隊や武士などの援助を受けた大海人皇子が一気に大津宮に攻め上り大友皇子を倒したのでした。まぁ、名前からしても大怪人皇子、いや大海人皇子なわけですから、さすがにお供する大友皇子は怪人に勝ち目はないことが一目瞭然ですよね。てなことで勝利したのは大海人皇子です。

 

さて、そうして天武天皇として即位するわけです。

 

天武天皇の時代

この天武天皇が即位した都はというと、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)です。さて、この天武天皇はどんな政治をやったのかというと、中央集権国家の推進です。前の天智天皇のときには、豪族勢力が強くて天皇として権力をいまいち握ることができなかった側面があるわけですが、この天武天皇は「天皇中心の政治をやるんだ!オレがやるんだ!」ということでぐっと引寄せたのでした。兄貴の天智天皇はリーダーシップをとった上で白村江の戦いで大敗してしまったこともあり、豪族たちがやいのやいのと言ったりするわけですね。そこで、天皇の側にぐっと権力を引き寄せようとするわけです。ですので、天皇中心の世の中にしたい!ってことです。

 

八色の姓

たとえば八色の姓(やくさのかばね)といって、豪族たちの身分制度を変更しました。どういうふうに変更したかというと、天皇の血筋に近いほど身分が高くするというものです。たとえば、上から順番に「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つがあります。全部覚える必要はありませんが、皇族に与えられた「真人」くらいは覚えておくと良いでしょう。ちなみに、朝臣とはもと臣、宿禰とはもと連、忌寸とは渡来人系の豪族に与えられた称号です。また、導師ほか3つは歴史上誰に与えられたかは不明とされています。

 

 
富本銭

今のところ、日本で最古とされる貨幣の富本銭を鋳造したのも天武天皇の時代です。

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飛鳥浄御原令の制定

つぎに飛鳥浄御原令という行政法を制定していきます。ここのポイントとしては、あくまでも制定であって、施行はまだですよってことを抑えておいてください。

 

飛鳥に居ながら、新しい都を作ろうとしたのも天武天皇です。新しい都として、藤原京という都の造営を開始をしましたが、造営途中に天武天皇は病気を患って死去してしまいましたので、遷都はまだです。

 

持統天皇の時代

天武天皇がこの世から居なくなってしまったので、次に天皇に即位したのが天武天皇の奥さんにあたる持統天皇です。ここで人間関係を整理しておきましょう。

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舒明天皇の奥さんが皇極天皇でした。この人は後に斉明天皇になります。そして、子どもはというと、天智天皇天武天皇でしたね。天智天皇の子・大友皇子でしたが、大友皇子にはお母さんが異なる兄妹がいました。これが持統天皇です。その持統天皇と結婚したのが天武天皇です。もうこの時代は血縁関係がかなり交錯していますよね。つまり、天武天皇かみれば自分の兄貴の娘(めいっ子)と結婚したことになります。

 

さて、以前乙巳の変のところで、この天智天皇の政治に協力した一人として蘇我倉山田石川麻呂という名前の長くてインパクトのある人がいましたよね。この石川麻呂さんは、持統天皇のおじいちゃんに当たります。天智天皇は心の狭い人でしたので、自分のライバルを次々と処刑したり、滅ぼしたりしていったのでした。この石川麻呂もその犠牲になった一人で、謀反の疑いで殺されてしまいます。つまり、持統天皇からすると、おじいちゃんがお父さんに殺されてしまったものですから、非常にかわいそうといえます。そして、お母さんとしても、父親が自分の旦那に殺されてしまったわけですので、最後は気を病んで死んでしまったのでした。

だから持統天皇にとっては、自分のお父さんのことをどこか信頼できないところもあり、男性という存在に抵抗を感じていたのかもしれません。そんな悩める少女に手を差し伸べたのが20歳ほど歳の離れた天武天皇だったのでした。天武天皇はめいっ子である持統天皇の状況をよく把握した上で、やさしく接してあげたのではないかなぁと思います。「男なんて信じられないわ」と思っていたときに。こういう年の離れた大人と付き合うことができて、持統天皇としても結果的に良かったのではないかなぁと思いますよね。

天武天皇の政策の引き継ぎ

ということで、「天武天皇の時代の政策内容」と「持統天皇の時代の政策内容」にはかなり密接な関連性がみられます。

藤原京への遷都

まず、旦那の天武天皇藤原京を作ったのなら、その藤原京に移ったのが持統天皇です。碁盤の目のような東西南北に走る道によって区画整理された条坊制の都をおき、大極殿、朝堂院といった政治および儀式の場が設けられ、のちの藤原京から平城京平安京長岡京のモデルになった都が藤原京です。

 

飛鳥浄御原令の制定

もう一つ、天武天皇がやり残していたことがあります。それは飛鳥浄御原令を施行するわけです。ほんとに鏡写しのように、藤原京が完成すれば藤原京に入り、飛鳥浄御原令が完成すれば、その命令を実行すると言ったように対象的な二人の政策だと考えていけばいいのではないかと思います。それは、天武天皇持統天皇の関係が良好であったから政策についても親和性もあったと考えられるでしょう。

 

庚寅年籍の作成

持統天皇オリジナルの政策としては、庚寅年籍という新しい戸籍が作られるようになりました。これは、天智天皇庚午年籍と混同してしまわないように注意が必要です。

 

今回は、斉明天皇天智天皇そして天武天皇とその奥さんにあたる持統天皇の それぞれの政策についてみてきました。今回は以上です。