日本史オンライン講義録

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160 55年体制

鳩山一郎内閣の国内の動きから確認しましょう。

1955年、広島で、第1回原水爆禁止世界大会が開かれます。 背景には、前年、アメリカによる水爆実験で日本人が被害を受けた事などがありました。

 

そして、重要なのが政党の動きです。 1955年、右派と左派に分かれていた日本社会党が再統一し、大きな革新政党を作り上げます。 当時、保守勢力は、吉田茂率いる自由党に対し、鳩山一郎が反吉田派を結集して日本民主党を結成していました。 しかし、社会党の統一を受け、これに対抗するために保守合同を求める動きが強まります。 その結果、自由党日本民主党が合併する形で、自由民主党が結成されたのでした。

 

これ以降、自由民主党(保守勢力)が3分の2弱の議席を持って政権を担い、日本社会党(革新勢力)がおよそ3分の1の議席を持つという状況が、40年ほどの長きに渡って続くことになります。 1955年から始まったこの政治体制を、55年体制といいます。

 

 続いて、鳩山内閣の外交について確認しましょう。

1956年、日ソ共同宣言が行われ、ソ連との国交が樹立します。 前述の政党の話ともつながる話ですが、鳩山一郎吉田茂への対抗意識もあり、吉田が成し遂げられなかったソ連との外交を進めたという見方ができます。 ただ、北方領土の問題は解決しないまま残りました。 択捉島国後島歯舞群島色丹島のいわゆる北方四島は、日本が領有権を主張する土地ですが、実質的にソ連に占領されていました。 このうち、歯舞群島色丹島については平和条約の締結後に返還されることになりましたが、平和条約は、いまだに結ばれていません。 ともあれ、ソ連と国交が樹立したことで、1956年、日本は国際連合に加盟することになりました。 これ以前は、日本の国際連合加盟について、常任理事国であるソ連が反対していたのですね。